ひするほかに術《すべ》を失つた人々は、後々この出来事を思ひ出して興味的な話題にする根気も手掛りもないほどだつた。私は極めて因習的な羞恥感から反射的に理由のない躊躇を覚え一も二もなく招待に応ずることのできないむねを答へたのだが、むしろ私の羞恥感がこの時いかほど不自然に見え、私の心労が醜怪に見え、私自身の立場のみが見窄らしく感じられたか知れなかつた。
 さういふことがあつてから数ヶ月後、品川駅前の広場をたつた一人歩いてゐるこの人に出会つた。もとよりアトリヱでは屡々顔を合はしてゐたが、二人きりで出会ふ折はなかつたのだ。私達はお茶をのんだ。
「ナポレオンは悪性の頑癬に悩まされてゐたんですつて? 頑癬の痒さで眠れない夜寝床の上をのたうちながら大遠征を計画したんですつて? 頑癬のひろがるたびに版図も拡大したんですつての? ほんとでせうか?」
「さういふ暗合もあつたかも知れませんね」
 と私は答へたが、婦人にはチョコレートを語らしめよといふチエホフの意見の通り、この有閑未亡人のチョコレートに私は深く耳を傾けもしなかつたが、夫人は厭味のない爽快な語調で、歯切れよく語りつづけた。
「ナポレオンはインポテンツだつたんですつて? ほんとでせうかしら?」
「然し子供があるぢやありませんか?」
「ワイマールでゲーテに会つたんですつてね。そのころゲーテは六十過ぎのお爺さんでワイマールの宰相なんですつて。部屋へ這入つてきたゲーテを見ると、ナポレオンは突然これは人物だつて叫んださうですわ」
「さうですか」
「でもそんな直感はナポレオンの偉さの証明にはなりませんわね。子供のやうに独断的ぢやありませんの? まるでだだつ子のやうに」
「さうかも知れません」
「スタール夫人はナポレオンを攻撃しすぎて巴里退去を命ぜられたんですつてね。スタール夫人の印象によると、ナポレオンは暴君とも違ふんですつて。優しくはないけど残酷でもなく誰に比べやうもない人物で、親しみも同感も受けないやうな人なんですつて、此方の感情も全然先方へ通じない人、ナポレオンに会つてゐると、人間を一つの物として見てゐるやうで少しも同類と思つてゐないといふことが、圧迫する力となつて感じられたさうですわ。社交や教育で涵養された品性とは何の関係もない強い力に打たれるのが普通で、思想や意志の力とは別な、たとへば人類に対して一片の好感の閃めきもまぢつてゐな
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