ところから、この物語りを始めやう。
 考へてもみたまへ。私は中年の恋を嗤ひはしないが、青白い夢を忘れていい筈の男が、恋に狂はず、恋のもつ感傷に狂ふといふのは滑稽な話だ。正面からの体当りはどんな愚かしい場合でも嗤ふ余地はないものだが、この老書生は悲恋の古風な詩人的哀愁に酔ひ歎いて、行方定めぬ一人旅に出やうといふのだ。この男が出立に際して私に残した却々《なかなか》の名科白は次のやうなふるつたものだが、私は放浪にでやうと思ふと口をきるその前から、今にも涙を流しさうな悲愴な面持をしてゐたものだ。私は放浪にでやうと思ふ、と、選りに選つて臆面もなく大きな文句を言ひだしたのも話のほかだが、その次に、旅にでた一二ヶ月は便りを書く気持にもなるまいと思ふが必ず安否を気づかつてくれるなときた時には、グイと笑ひを噛み殺さずにゐられなかつた。正直のところ、若しも私がとめさへすれば、叔父は旅行を中止したかも知れなかつた。私がとめることを予期した上で、流れる感傷の快さにつひふらふらと旅にでるなぞと言ひだした、勿論私はそこまで残酷に言ひ切れないが、心に起つた実際を振返つてみると、あの場の前後の行掛り上私は一応留めねばならない義理に駆られた事実がある。然し私は、叔父の不在が私のある種の計画に願つてもない好条件を生むことになるので、いささか嘉《よみ》すべき道義的な想念の萌芽を文句なしにもみつぶしてしまつたのだ。予期に違はず、早くも出発して三月目に、旅の第一信が私の机上にとどいた。叔父は上州万座といふ月並な温泉にゐたのである。
 叔父の第一信を手にしてから一時間とたたないうちに、私は蕗子の訪問を受けた。まさしく玩具の人形のやうな、然し立派な肉体をもつた二十八歳のこの女は、芹沢東洋にかこはれた日陰に咲く花であつた。
 叔父はその旅先から綿々たる感傷を連ねた長文の消息を蕗子へ宛てて送つたのだ。それを蕗子は叔父の書置きと誤読した。それらしい明確な文句は一つないにも拘らず。然し蕗子は叔父が旅立つ直前から、彼女と私の関係を叔父に気付かれてゐるのだと疑ぐりだしてゐたために、叔父の取り乱した焦燥や、あはただしい旅立ちが、この問題を原因にした懊悩から由来してゐると信じかけてゐたもので、年甲斐もない東洋の一様ならぬ哀調を流した告白的文章にぶつかると、超躍的な戸惑ひをしたのであつた。勿論叔父の文章も正気の沙汰ではないのであ
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