ェ然しこの人の絶望につかれた翳に不思議な魅力を感ぜずにゐられないのは、私の愛慾の本能が、私の意欲に勝たうとするわけだらうか? 私の意欲がまだ充分に全精神を貫くだけの力を具えてゐないためか? それとも愛慾に理窟は不用のものであらうか? この人の時々の行路に疲れて放心したやうな顔付の中には、なんといふ解きがたい苦悩を宿した絶望のかげがあることだらうか!
私は心に呟きつづけてゐた。私は正体の不確かな不思議な感動に憑かれてゐたのだ。そして時々わけもなく涙が滲まうとするのであつた。然し私の一つの冷静な心はその時もなほむしろ傲然と呟きつづけてゐたのであつた。私はこの人を他のあらゆる女と同様に決して真実の愛をもつて愛してはゐない、と。私の心はこの人によつて決して全てが充たされもせず、救はれることもできないだらう、と。心の救はれざる恋愛がありえやうか?
女を欺くことに馴れてゐる私も、愛を欺くことはできない。秋子を欺くことは他のあらゆる女を欺くと同様決して特別心にかかる事情がありえやう筈はないにも拘らず、この人の場合に限つて、私はこの人を愛してはゐないと常に頑《かたくな》に言ひ張る声をききつづけねばならぬのは、この人の場合に限つて、真実の愛のひときれが私の心に宿つてゐるためであらうか? そのひときれの愛情はもとより私の全てではない。そして私は秋子を欺くことによつて、そのひときれの真実の愛を欺くことが怖ろしいのか? 秋子を愛することによつて、そのひときれの真実の愛を欺くことが怖ろしいのか?
たそがれ、三名の婦人は立ち去つた。秋子はその日から静浦の別荘で暮すことになつたのだ。
三名の男は酒をのんだ。
「あの婦人には人に許された最も高度な純潔とその類ひ稀れな純潔の故に課せられた永劫不尽の大苦悩が秘められてゐるのだ」
二九太は深い感動をもつて秋子に就いて語りはじめた。
「あの人のしひたげられ、ふみつけられた精神史の呻きにも似た時々の痴呆のやうな表情を見たか! あの弱々しい臆病な眼差しをみたか! 人殺しと呼ばれた時の蒼ざめきつた無表情の顔は決して宗教の救ひ得ない、然し最も荘厳なる苦悶の像にほかならなかつたよ。あの人は疲れきつて倒れてしまつた! あのくひしばつた口のせつなさ! その唇のかすかなかすかな痙攣を君達は見たか! あれは全て最も高潔な、いぢらしい悩める魂の姿なのだ! 僕はあのい
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