きで汚い帽子を脱ぐと、大きい身体を丸めて、別れのために不器用な敬礼をした。
翌日令嬢は旅立つた。親しい人々の賑やかな見送りを受けて停車場を出ると、線路沿ひの炎天の下に奇妙な人影を見出して吃驚した。絵具箱を抱えた大きな中学生が電柱に凭れて、むつとした顔をしながら、あの祭礼の日に見出した傲岸な眼を車の中へ射込んでゐた。そして、車が擦れ違つてしまふと、物憂げに振向いて、大きな肩をゆさぶりながら歩いて行つた。
次の冬休みに、令嬢は父の任地へ帰らなかつた。無論、少年にこだはることは莫迦々々しく思はれたし、事実少年に再会するとすれば、不気味千万なものに考へられた。
併し令嬢は、ある喋り疲れた黄昏に、一人の友達へ囁いた。
「あたし、別れた恋人があるの。六尺もある大男だけど、まだ中学生で、絵の天才よ……」
天才といふ言葉を発音した時、令嬢は言ひたいことを全部言ひ尽したやうな、思ひがけない満足を覚えた。なぜなら、此の思ひがけない言葉に由つて、夏の日、砂丘の杜を洩れてきたみづ/\しい蒼空を、静かな感傷の中へ玲瓏と思ひ泛べることが出来たから。
底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
199
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