が微笑しながら話しかける度に少年は怒つた顔をして、さうです、とか、いゝえ、とか、ただそれだけの返答をした。そして、焼けつくやうな眼を、令嬢と画布へ交互に走らせてゐた。
 一日急用があつて、令嬢は少年に断りなしに十日程の旅に出た。帰ると、生憎それからの数日は連日の雨であつた。そして慌ただしく夏が終らうとしてゐた。
 雨の霽《は》れた昼、令嬢はきらきらするポプラの杜へ登つていつた。いつもの場所へ来てみると、少年は、其処へ据えつけられた彫刻のやうに、黙然と画布に向つて動かずにゐた。
「明日、あたしは東京へ帰るの……」
「もう、一人でも仕上げることが出来ます」
 少年はぶつきら棒に答へて、令嬢が姿勢につくことを促すやうに、もう画筆を執り上げてゐた。雨の間に、去り行く夏の慌ただしい凋落が、砂丘一面にも、そして蒼空にも現れてゐて、蝉の音が侘びしげに澱んでゐた。画は令嬢の予期しなかつた美しさに完成に近づいてゐた。別れる時、令嬢は再び言つた。
「もう、お別れね。明日は東京へ帰るの……」
「もう一人でも仕上げることが出来ます」
 少年は怒つたやうな、きつぱりした声で、同じことを呟いた。そして、朴訥な手つきで汚い帽子を脱ぐと、大きい身体を丸めて、別れのために不器用な敬礼をした。
 翌日令嬢は旅立つた。親しい人々の賑やかな見送りを受けて停車場を出ると、線路沿ひの炎天の下に奇妙な人影を見出して吃驚した。絵具箱を抱えた大きな中学生が電柱に凭れて、むつとした顔をしながら、あの祭礼の日に見出した傲岸な眼を車の中へ射込んでゐた。そして、車が擦れ違つてしまふと、物憂げに振向いて、大きな肩をゆさぶりながら歩いて行つた。
 次の冬休みに、令嬢は父の任地へ帰らなかつた。無論、少年にこだはることは莫迦々々しく思はれたし、事実少年に再会するとすれば、不気味千万なものに考へられた。
 併し令嬢は、ある喋り疲れた黄昏に、一人の友達へ囁いた。
「あたし、別れた恋人があるの。六尺もある大男だけど、まだ中学生で、絵の天才よ……」
 天才といふ言葉を発音した時、令嬢は言ひたいことを全部言ひ尽したやうな、思ひがけない満足を覚えた。なぜなら、此の思ひがけない言葉に由つて、夏の日、砂丘の杜を洩れてきたみづ/\しい蒼空を、静かな感傷の中へ玲瓏と思ひ泛べることが出来たから。



底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   199
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