品で、その商品としての媚態に対して最高の商人的な徳義と良心を持つてゐる。その良心は優秀なる媚態といふことで、貞操などとは無関係だ。貞操などといふものは単に精神上に存在するのみであつて、物質としては一顧の価値もない。根柢的な物質主義を基盤として成立つてゐる娼婦の思考は無貞操といふことに罪悪感は持ち得ず、男を無上に喜ばせるといふことに対して当然にして莫大な報酬を要求してゐるだけのことだ。マノン・レスコオの場合に於てはその薄命の最後に至るまで変らざる愛人があつたが、これはプレヴォ僧正のせめてもの常識的な道徳に対する賄賂であり、世の実相は概ね此の如きものではないだらう。マノンの不貞節は一人の愛人に対する変らざる真実の情熱によつて徳義化しうる性質のものではない。もしそれが徳義化し得るなら、それ自体の本質によつてである外に道はない。
 ショデロ・ド・ラクロの「リエゾン・ダンヂュルーズ」(危険な関係、と訳すべきか)はかゝる天性の娼婦に高い身分(侯爵)と高い教育を与へ、マノンに於て盲目的であつたことが、最も意識的に、即ち愛の遊戯を明確なる人生の目的とした男女の場合を描きだしたものである。侯爵夫人によれば愛の遊戯の満足は肉慾の充足自体ではなく、そこに至る道程の長い悩殺と技巧と知識の中にあるので、そのためにあらゆる観察と研究が行はれてゐるのである。この小説は昭和初年に猥本の限定出版物の中に訳されたことがあるのだが、愛慾に対する追求が誠実であるほど猥本の領域に近づくことは当然で、日本に於ては今日まで訳されて一般に流布する見込みの立たなかつた作品だ。私はあらゆる本を手放したときにもこの原本だけ大事に所得してゐたのであるが、小田原の洪水で太平洋へ流してしまつた。
 かゝる人性への追求は永遠に「家庭」と相容れないものであり、その限りに於て不道徳なものであるが、果して「家庭」とは何物であるのか。家庭のために人はかゝる遊びへの欲望を抛棄すべきものであるか。思ふに我々の陰鬱なる家庭は決してしかくあくまで守らねばならぬ値打を持つものではないだらう。我々の家庭は外形内容ともに尚多くの変貌変質すべき欠陥があり、家庭の平穏に反することが直ちに不道徳を意味することは有り得ない。
 通用の道徳は必ずしも美徳ではない。通用に反する不徳は必ずしも不徳ではなく、かゝる通用の徳義に比して、人性の真実といふものには如何な
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