だ。けれども一般に人々はかう考へる。古い習慣や道徳を疑ぐることは自分の方が間違つてゐるのだ、と。そして古い習慣や道徳に自我の欲望を屈服させ同化させることを「大人らしい」やり方と考へ、さういふ諦めの中の静かさが本当の人間の最後の慰めであり真善美を兼ね具へたものだといふ風に考へるのだ。
私は不幸にして、さういふ考へ方のできない生れつきであつた。私は結婚もしないうちから、家庭だの女房の暗さに絶望し、娼婦(マノンのやうな)の魅力を考へ、なぜそれが悪徳なのか疑ぐらねばならないやうなたちだつた。その考へはいはゆる老成することなしに、益々馬鹿げた風に秩序をはみだす方へ傾いて行くばかりであつた。だが、私には分らない。今もつて何も分らないのだ。
プレヴォによつて発見されたこの近代型の娼婦はその後今日に至るまで多くの作家の作品の中に生育発展し、ユロ男爵の如くそれに向つて特攻隊的自爆を遂げる勇士も現れ、その反動の淑徳も亦自ら新に考察せられてきた。尤もドストエフスキーの如く凡そあらゆる背徳に就て饒舌すぎる観念を弄しながら「気質的」にかゝる娼婦に多くふれ得ない作家もあり、彼の娼婦は概ね日本一般の常識の如く、貧故に身を売らねばならなかつた汚濁に沈む悲惨な運命の子であり、しひたげられ踏みつけられた人々なのだ。稀に賭博者の中の女大学生やブランシュ嬢の如きものも現れても、その天性の娼婦的性格に対して人間そのものゝ本質からの誠意ある考察を払つてゐない。彼は気質的にかゝる女の性向と離れてをり、それ故に彼の観念には多くの甘さのある所以でもある。尤も当時のロシヤは現在の日本の如く貧乏な世界の片田舎で、たとへば文化の庶子であるかゝる天性の大娼婦が現れてゐなかつたのも事実であらう。然し、観念は、さういふ現実によつて限定されるものでもない。
日本では美しいものは風景で、庭などに愛情を傾けるのであるが、人間のノルマルな欲求が歪められ、人間的であるよりも諦観自体がすでに第二の本性と化した日本人が、人間自体の美よりも風景に愛情を托したのは当然であつたに相違ない。然し、人間にとつて、人間以上に美しいものがある筈はない。
マノンはその情夫の青年を熱烈に愛してゐるのであるが、他の男を媚態によつて迷はし貞操を売ることを貞節への裏切りであるといふ風な考へ方が本来欠けてゐるのである。豪奢な楽しい生活のためには媚態が最高の商
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