れだけ。
 はじめて谷村も目をとぢた。自分の目が厭になつたからである。けれども、目をとぢることに堪へ得ない。信子の顔を失ふことに堪へ得なかつた。
「信ちやん。何かを答へてくれないか。目はとぢたまゝでいゝ。あんな風に僕を見つめるのは残酷といふものだよ。僕の告白に返事をくれる必要はない。たゞ、何か、言葉がきゝたいだけだ」
 信子は然し答へない。そして放心は変らない。笑ひの翳はいくらか揺れてゐるかも知れぬ。いつも何かゞ揺れてゐた。形には見えぬ翳のやうなものが。
 谷村は信子に甘えてゐる自分を見つめた。然し、不快ではなかつた。そして谷村は気がついた。信子を少女のやうに扱ふ気持が根こそぎ失はれてゐることに。益々勇気がわいてゐた。それはどのやうな愚行をも羞ぢない、如何なる転落も、死をも怖れぬといふ自覚であつた。
 谷村は信子の不思議に薄い唇を見つめてゐた。それは永遠に真実を語ることがない一つの微妙な機械のやうな宿命を感じさせた。信子の鼻は尖つてゐたが、その尖端に小さなまるみがあつた。そこには冷めたい秘密の水滴が凝り、結晶してゐるやうに思はれる。人はそこに冷酷、残忍、不誠実を読みとることも不可能では
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