言つてやりたくなつてきた。それは信子に誘はれてゐるやうでもあつたし、誘はれやうとしてゐるやうでもあつた。
幼い頃、こんな遊びをしたことがあつたやうだと谷村は思ふ。柿の木に登つて、柿の実をとつてやる。下に女の子が指してゐる。もつと上よ、えゝ、それもよ、その又上に、ほら。そして、枝が折れ、地へ落ちて、足の骨を折つてしまふ。それは谷村ではなかつた。隣家の年上の少年だつた。生きてをれば、今も松葉杖にすがつてゐる筈なのである。
この部屋には退屈と諦めがない。それは谷村の覚悟であつた。上へ、上へ、柿の実をもぎに登るのだ。落ちることを怖れずに。落ちるまで。
谷村はこのまゝ、こんな風にして、眠ることができたらと思つた。そして、そのまゝ、その眠りの永久にさめることがなかつたら、と思つた。
「今、僕に分るのは、この部屋の静けさだけだ。世の中の物音は何一つきくことができない」
と、谷村は譫言《うわごと》をつゞけた。
「火鉢の火が少しづつ灰になるものうさまで耳に沁みるやうな気がする。僕に自信が生れたのだ。それはね、信ちやんは如何なる愛にも堪へ得る人だといふことが分つたやうに思はれるから。信ちやんは愛さ
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