を裏切るものだつた。蓋し、顔のほてりに示されたものは、その精神の情熱ではない。むしろ最も肉体的な情熱であつた。それは直ちに肉体の行為に結びつき、むしろ、それのみを直感させる情熱だつた。それは健全なものではなかつた。白痴的なものだつた。精力的なものではなかつた。それよりも更に甚しく激しかつた。病的であつた。そしてその実体は分らない。恐らく無限といふものを想像させる情熱だつた。
 私は私ですもの、と信子は言つた。肉体のない女だなんて、をかしいわ、私は幽霊ではないのですもの、と言つた。それは正直な言葉であるのか、技巧的な言葉であるのか、分らない。五分間前の谷村ならば、これを技巧と見るほかに余念の起る筈はなかつた。顔のほてりを見て後は違ふ。むしろ一つの抗議とすらも見ることができた。
 然し、又、あらゆる言葉と同様に、顔のほてりすらも、生れながらの技巧であるかも知れないと谷村は怖れた。唐突でありすぎた。激烈でもありすぎた。めざましい奔騰だつた。ともかく一つ真実なのは、告白が許されたといふことだけだ。だが、告白が許されたといふことだけでは、すくなからず頼りなかつた。彼の見た信子の顔のほてりは、あまり目ざましすぎたから。彼の古い幻想は唐突に打ち砕かれてゐた。そして、新たな幻想が瞬時に位置をしめてゐる。それは信子の肉体だつた。彼がそれまで想像し得たこともない異常な情熱をこめた肉体だつた。
 なぜ今まで、この肉体を思はなかつたかと谷村は疑つた。思ひみる手がかりがなかつたのか。それもある。然し、肉体のない、魂だけの、といふこと自体が不自然だ。幻想的でありすぎる。その幻想は自衛の楯だと谷村は思つた。信子にふられることを予期しすぎ、飜弄されることを予期しすぎての楯の幻想にすざないやうな思ひがした。信子の肉体は思はなくとも、その美しさは知つてゐた。そして、たゞ飜弄せられる激情のみを考へてゐた。その幻想の甘さを、彼は今まで不自然だとは思はなかつたゞけである。
 疑り得ない一つのことは、かなり遠い昔から、信子が好きであつた、といふことだつた。

          ★

 信子は窓際から戻らなかつた。谷村はそこへ歩いて行つた。彼は自分の病弱の悲しい肉体のことを考へた。このやうな悲しい肉体が、その悲しさのあげくに思ひ決した情熱も、やつぱり魂のものではなしに、女体に就いてゞあつたかと思ふ。それを信ずべきかを疑つた。
 信子の顔のほてりが、たゞ一瞬の幻覚であつてくれゝばよい。否、すべてが信子の天来の技巧であつてくれゝばよい。谷村はわが肉体の悲しさ、あさましさが切なかつた。その悲しむべき肉体を、信子の異常な情炎をこめた肉体に対比する勇気がなかつた。彼は羞しかつた。そして恐怖を覚えた。無力を羞ぢる恐怖であつた。
 そして、かゝる恐怖があるのも、待ちまうける希ひがあつてのことだつた。谷村の心は何、と訊かれたら、彼はたゞ答へるだらう。分らない。成行きが、その全てだ、と。
「信ちやんは、贋物の恋は好き、と言つたね。僕の恋は贋物ではない。偽りの恋といふのだよ。偽りは真実であるかも知れぬ。然し、贋物は、たぶん、贋物にすぎないだらう。信ちやんは骨董趣味に洒落たのかも知れないが、その洒落は僕には良く通じない。然し、僕は思つた。信ちやんは僕の告白を許してくれたのだ、と。それを信じていゝだらうね」
 信子は窓を下した。
「冬の風は、あなたに悪いのでせう」
「すぐにも命にかゝはることはないだらうと思ふけれどもね」
「なぜ、窓をとぢてと仰有らないの」
「信ちやんがそれを好まないからさ」
「あなたの命にかゝはつても」
 谷村はうなづいた。
 信子の顔は燃えた。油のやうな目であつた。
「私だつて、誰よりもあなたが好きだつたのよ」
 谷村は、すくんだ。
「私は、今日は、変よ。だつて、あなたが、あんまりですもの。あなたが、意地わるだから」
 信子の唇が訴へた。にはかに顔色が蒼ざめた。まるで肢体が苦悶によつて、よぢれるやうに感じられた。
「あなたは、ひどい方。私を苦しめて」
 信子は両手を握りしめて、こめかみのあたりを抑へた。
「私を、こんなに、こんなに、苦しめて」
 唇がふるへた。目がとぢた。身体は直立して、ゆれた。それは倒れる寸前であつた。谷村が抱きとめたとき、信子はこめかみを拳《こぶし》で抑へたまゝ、胸の真上へくづれた。
 谷村は支へる力がなかつた。反射的な全身の努力によつて、自分が尻もちをつき、信子が胸からずり落ちるのに、嘘のやうに緩慢な時間があり得たことを意識した。それにも拘らず、ずり落ちた信子はかなりの激しさで床の上に俯伏《うつぶ》してゐた。両手の拳にこめかみを抑へたまゝの姿であつた。
 谷村は意志のない身体の重さに困惑した。信子をだきかゝへて、仰向けに寝せるために、その全力をだしつく
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