だけで満足した。そして、それだけで満足し得たことにも、満足した。言ひきることほど、下らぬことは有り得ない。それはこの部屋の真理であつた。
「僕の謎々はもう終つた」
谷村はその体内から言葉を押しあげてくる力を覚えた。
「僕は信ちやんの天来の犯罪性にぞつこん迷つてしまつたのさ。目にも、鼻にも、迷ひはしないよ」
さうでもなかつた。彼は信子の目も鼻も好きであつた。
★
信子はいつも、ぱつちりと目をあける。ゆるやかには、あけなかつた。
信子は手にしていた林檎を皮ごと一口かじつた。平然として、かみついた。歯が白かつた。
「あなたも、かうして、めしあがれ」
いくらか谷村をひやかすやうな調子があつた。事実、谷村は林檎を皮ごとかじる習慣をもたないのである。然し、ひやかしは必ずしも林檎に就いてゞはない。谷村は常に意表にでられてゐる。ひやかしはその意味だつた。皮ごとかじりつく歪みと変化の美しさを信子は意識してゐるのである。
信子は二口かじつて、やめた。
なぜ一口でやめなかつたか、谷村は問ひたかつたが、やめた。それはたしかに愚問であつた。二口でも、美しい。三口でも、美しい。むしろ、芯まで食べてもらひたかつた。林檎をかゝへて口に寄せる手つきからして爽かだつた。肩と肘のすくんだ構へも、目に沁みた。
「あなたの謎々は私が必ず悪い女でなければいけないのね」
「あべこべだ。僕は讃美してゐるのだよ」
「だから、悪い女を、でせう」
「悪いといふ言葉を使つた筈はないぜ。僕には善悪の観念はないのだから。たゞ、冷めたいといふこと、孤独といふこと、犠牲者といふこと、犯罪者といふこと」
信子はふきだした。それは林檎にかみつくよりも、もつと溌剌《はつらつ》奔放な天真爛漫な姿であつた。
「そんな讃美があつて?」
「信ちやんにだけは、さ。信ちやんだけが、この讃美に価する特別の人だからさ。ほかの人に言つたら怒られるが、それはその人が讃美に価するものを持たないから」
「あなたは私が怒らないと思つてる?」
谷村はためらはなかつた。
「思つてゐる。信じてゐるよ」
「あなたは、私の絵が平々凡々で常識的だと仰有つたでせう。もしもそれが私の本当の心だつたら?」
「芸術は作者の心を裏切ることがないかも知れぬが、信ちやんの絵は芸術ではないのだからさ。お嬢さんの手習ひだから」
信子の顔は、又、変つた。微塵も邪気のない顔だつた。そのほかには、あらゆる感情が表れてゐない。あどけなさがあるだけだつた。
「あなたは驚くべき夢想家よ。でも、面白い夢想家だわ。無邪気な夢想家かも知れないわ。私を辱しめる罪を見逃してあげればのことよ。でも善良に買ひかぶられて取りすまさなければならないよりも、不良に見立てられてその気になつてあげるのも面白いわ。私は遊ぶことは好きですもの」
「それなんだよ、信ちやん。僕がさつきから頻りに言つてゐることは」
「まア、お待ちなさい。あなたのお喋りは」
と信子は手で制したが、心底からハシャイでゐる様子であつた。それは一途に無邪気なものにしか見えなかつた。見様によれば、平凡な、遊び好きの、やゝ熱中した娘の姿にすぎなかつた。
「あなたは全てを適当にあなたの夢想にむすびつけてしまふのですもの。私はそんな風に強制されるのは、いやよ。私は、私ですもの。肉体のない女だなんて、をかしいわ。私は幽霊ぢやないのですもの。それに犯罪者だなんて、被害者に注文されて犯罪する人ないことよ。でも、遊びは、好き。贋の恋なら、尚、好き。なぜなら、別れが悲しくないから。私は犬が好きだけど飼はないのよ。なぜなら、犬は死ぬから。すると、悲しい思ひをしなければならないからよ。私は悲しい思ひが、何より嫌ひなのですもの。私が悲しむことも、いや。人が悲しむことも、いやよ。私は半日遊んで暮したい。半日はお仕事するのよ。私はお仕事も好き。何か忘れてゐられるから。遊ぶことすらも、忘れてゐられるからなのよ」
信子の顔はほてつた。言葉はリズミカルに速度をました。それは、やゝ、狂譟《きょうそう》といふべきものだ。顔のほてりが谷村に分るのだから。
「あゝ、あつい」
信子は振り向いて、窓際へ歩き去つた。
★
贋の恋の遊びなら尚好き、と信子は言つた。それは告白に対する許しだらうと谷村は思つた。
ところで、谷村は許しに対する喜びよりも、更に劇しい驚きに打たれた。それは信子の顔のほてりであつた。それはまさに予期せざる変化であつた。暴風の如き情熱だつた。顔に現はれたのは、たゞ、ほてりにすぎなかつたが。
谷村は信子に就いて極めて精妙な技術のみを空想してゐた。かりそめにも荒々しい情熱などは思ひまうけてゐなかつた。顔のほてりは、たゞそのことを裏切つたのみではない。信子に就いての幻想の根柢
前へ
次へ
全10ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング