さねばならなかつた。彼は信子を抱きかゝへたまゝ、自分を下に一廻転して倒れなければ、仰向けに直すことができなかつた。信子のからだをずり落して、その重さから脱けでることができたとき、彼は疲れの苦しさよりも愛欲の苦しさに惑乱した。信子の顔には怪我はなかつた。
 信子はかすかに目をあけた。谷村は自ら意志するよりも、よほど臆病な遅鈍さで、信子に接吻した。彼はむしろ、その意慾の激しさのために、空虚であつた。信子はその接吻に答へ、目は苦悶にみちて、ひらかれた。両の拳がこめかみを放れて、大きく、高く、ゆるやかに、虚空をうごいた。大きく虚空をだくやうに、そして、ゆるやかに、両腕が谷村の痩せた背にまはつた。その腕に力はこもつてゐなかつた。背をまいて、然し、背にふれてゐなかつた。たゞ何本かの指先が、盲目の指先の意志でなされる如くに、谷村の背の両隅を、緩慢に、然し、かなりの力をこめて、押し、動いた。
 信子は突然泣きむせんでゐた。信子の全てのものが、一時に迸つてゐた。力のすべては腕にこもつて、谷村の胸をだきしめた。たゞ狂ほしく唇をもとめた。
 谷村は惑乱した。彼の腕は信子の首をだきしめるために自ら意志する生きものであつた。
 それから起つた事柄は、彼にはすべて夢中であつた。曾《かつ》て彼の経験せざることのみだつた。二人は部屋いつぱいにころげまはつた。あらゆることが、不自然でなかつた。そして彼は信子を下に見る時よりも、信子を上に見るときに、逆上的に惑乱した。なぜなら、そのときの信子の顔はあらゆる顔に似てゐなかつた。信子は陶酔しなかつた。たゞ、興奮した。その顔色は茶色であつた。それにやゝ赤みがさしてゐた。頬はふくらみ、目は燃えてゐた。その目は、とぢることがなかつた。
 二人は一つであつた。壁にぶつかり、又、もどつた。火鉢にすらも、ぶつかつた。谷村の上に、信子の倒れてゐる時があつた。二人は十の字に重りあつて、倒れてゐた。二人は疲れきつてゐた。谷村はやうやく呼吸を意識するのが全部であつた。然し又信子は緩慢に起き直り、谷村の首に腕をまいてくるのであつた。すると又、新たな力がわいてゐた。谷村はわが肉体のつきざる力に感動した。信子の疲れて倒れるときは、いつも谷村の身体の上に十の字に重りあつて、のめつてゐた。谷村は物を思ふことがなかつた。信子を見つめることだけが、すべてゞあつた。
 おのづから二人の離れる
前へ 次へ
全19ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング