笑い声を発しましたが、実はセラダがうらやましくてたまらぬらしく、ヨダレがたれそうな顔ツキでもありました。
「チェッ! 小夜子サン、真ッ赤になりやがった!」
と、小夜子サンが赤くなってセラダを案内するのを残念そうに見送っていたのです。
来るはずの法本がなかなか姿を見せませんので、ふだんならこんなとき進んでノコノコ自己紹介に現れて巧みに印象づけるのが日野の持ち前の性分であるにも拘らず、この日は毒気をぬかれたのか、料理場の片隅にへばりついたり、ちょッとノソノソ動いてみたり、アブラ虫のような挙動が精いっぱいのようでした。彼は甚しくオッチョコチョイの時と、甚しく人みしりする時と二ツあるのですが、人みしりする時は軽蔑しながらも心服したような気分の時にそうなのかも知れません。彼はセラダに自己よりもやや優秀な同類を見出して、ねたましがっていた様子のようでした。あげくに彼は突然呟きました。
「小夜子サン、セラダのものになるな」
また口走りました。
「セラダの奴、小夜子サンをきッとものにすると思うな」
むろん小夜子サンのいない時を見はからって云ったのです。二度目の呟きが前のよりも確信的な云い方になったのは、彼自身がむしろそれを望んでいない証拠だったかも知れませんが、するとその時ギックリと鎌首をたてて日野をジッと見つめたのがそれまで熱心に料理中のトオサンだったものですから、これには日野がギクッとおどろく番だったようです。彼はこのとき、はじめてトオサンの悲しい恋心を知り得たかと思います。奴は慌てて帳場へ去りました。
こういうわけで、法本がせっかく一席もうけた商談は全然役立たずです。なぜなら、セラダは約束をまもらず、万事をホーテキして日となく夜となく毎日毎日小夜子サンのもとにつめきりと相なったからです。
事態は急速に進展しました。そしてたちまちのうちに例の熱海心中と相なったのですが、これの前に書きもらしてはならぬ重大な出来事があったのです。
小夜子サンは亭主の物理学者との別れるに別れられない関係にヤケを起していたのです。亭主は書斎にとじこもったきり夜明けちかくまで出てきません。一しょに映画や海や山へ行くではなし、夫婦らしい交驩《こうかん》ということは何一ツやろうとしません。そのくせ夜明けちかく書斎からでてくると必ず肉体を要求することだけは忘れたタメシがないのだそうで、これでは全くケダモノの生活だと小夜子サンは思いつめました。こんな理由で亭主がキライになったらさぞムザンなことだろうと思いやられますが、亭主の物理学者が並みはずれてのヤキモチヤキで、日課として肉体を要求するのもその物理的必然によるらしく、強いて別れると刃物三昧はとにかく硫酸ぐらいは当然ぶッかけられるものと覚悟をきめる必要があったようです。
セラダがキザで無学で悪党で、どこにも取得がないので、小夜子サンの気に入りました。ヤブレカブレには手ごろでしたのでしょう。その上二世ときてはアツライ向きです。日本人同士のように過度に魂をいためなければならないような要素が少かったからです。トンチンカン以上に魂がふれあう必要がなくて、チェリオとかなんとかやってれば、それで結構憂さは忘れられました。
小夜子サンがだんだん深間へはまりそうになったので、ここにヤブから棒にとんでもないことが突発しました。それはこれにたまりかねたトオサンが一世一代の沈思黙考のあげく実に突如として愛の告白に及んだことです。洞穴に追いつめられた敗残兵が突如として総攻撃に転じたような悲痛の様が思いやられますが、行われた現象としては必ずしもそうではなくて、素人芝居の中でも一番不出来なのに似ているようなオモムキだったようです。
トオサンはお茶をのみに行こうと云って小夜子サンを誘いだしました。しかし喫茶店で向いあってる間中、どうしても物が云えず、
「どうだい。競輪へ行こうじゃないか」
とグッとオモムキを変えて後楽園の競輪場へ行きました。行った以上は車券も買ってみないわけにいかないので、車券を買いに行きましたが、後楽園競輪で車券を買うには人事の全てをつくすていの活躍が必要なのです。右の人波から腕をひッこぬき左の人波から肩をわり、芋を洗う必死の人波を歩一歩漕ぎわけ押しわけてジワリジワリと窓口に進撃しなければなりません。親知らず子知らずどころか、山賊同士ですらここでは行をともにすることができないという難所で、思いをとげ三枚の車券を握ってこの人波からやっと解放された時には魂がゴッソリぬかれていますから愛の告白なぞできるものではないのです。もっとも、車券は当りました。百八十円の配当ですから三八の二百四十円のモウケでした。窓口へ行列してこの配当を受けとり、トオサンはてれかくしに笑いました。
「競輪はくたびれて、いけねえ。どうだい。この二百
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