けです。セラダはあまり自動車をとばさぬように、わが胸を押えに押えて、顔色も変えずに池袋へ戻り、そこで人心地をとりもどして自分のアパートへ到着しました。二千万円の現金はデンとセラダの部屋に位置をしめ、セラダは満足してイスに腰かけ、サントリーのポケットビンに口をつけてウイスキーを呷りました。
その晩、セラダと日野が上乗の首尾を祝して例の飲めや歌えをやったことは申すまでもありません。けれどもセラダは祝宴の途中から親友をおいてき堀にして、小夜子サンを片隅にとらえて、たのむ、拝む、はては土下座してまでの懇願哀訴でした。それは多彩でもあれば執念深くもあり、またどことなく物の哀れもあるようなチャルメラ的なものであったのですが、当人の身にしてみればダテにチャルメラを吹いてるわけではなかったのです。必死なのでした。
セラダは大金を背にどッかとアグラをかいてみると、自殺だの心中なぞは当分延期の気分で、いまやシンから人生をたのしみたくなったというものです。
「心中、もう、イケマセン。ワタクシ、アナタのドレイなります。アタミへ一しょに行きましょう。たのみます」
ざッとこういうわけです。
これが十日あまりもつづいたのです。小夜子サンもヤケを起してしまったのでした。
だいたいにおいて小夜子サンはセラダがやや好きの方だったのでしょう。彼のオッチョコチョイぶりもこうひどすぎると俗人ばなれがしてアカぬけたような気分になるから妙なものでした。とかく日本的オッチョコチョイは哲学的詩的要素が加味されていて頭痛を起させがちなのですが、セラダのにはジャズ以上の重量級のオッチョコチョイは加味されていないのです。気分的に楽でした。当人は万人に軽蔑されても意に介しない荒海の救命イカダのような安らかな心境にいることですし、ツキアイが楽だというのは坐り心地や生きる心持の急所が楽だというようなものです。
彼のヤケが底をついているのも、時々にシミジミさせられることがあって、わるくはなかったのです。死の崖にいる切なさや逞しさも時に青い山を見るような酔い心地を与えてくれることがありました。それは一瞬にすぎ去る感傷にすぎませんが、この人生はその程度でまアまアではありませんか。
しかしとにかく相手は汽船でもボートでもなく救命イカダの類いですから、平時に於てこれに乗りこむには多少のヤケも必要だったわけです。
別に深い
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