、それは彼の本能に馴れた方法で襲うもので、それに応じて逃げる術が本能的に具っている。本能に馴れない方法で襲う敵は、ムヤミに急襲するものであり、それに対しては彼も向うみずに逃げる本能の用意がある。カメの沈身法は魚の本能の逆手をとって、不動金しばりにするもので、これが奥儀中の奥儀である。水底を静かに歩く。そして水底の魚に魂魄をもって話しかける。お前、どうだ、オレのところへこいよ。オレの指の中へはいれ。こう言うと、魚は指を見て、合点して、指の股へ身をすくめてはいってきてジッとしている。こうして両手の指の股へ合せて六匹ぐらいまでは魚をはさんで帰ってくることができる。
カメはすべてこれらの奥儀を独学によって自得したのである。彼は水面を泳ぐことはできない。彼は泳ぐ必要を認めないからだ。魚は泳がない。魚は水をくぐるのである。人間は水面を泳ぐから、魚をとらえることができない。
カメは水面へ姿を見せないけれども、一里の河を誰にも姿を見られずに横断することができる。フトコロに葉ッパが一枚あればタクサンだ。水中をくぐり、息がきれると、静かに直立して水面ちかく浮きあがり、鼻の孔だけ外へだす。これを葉ッパでチョイと隠す。直立したカメの身体は水流と共に流れているから、人々の目には一枚の葉ッパが浮いて流れているとしか見えない。これを葉隠れという。カメは水中に魚をとる姿を人に見られるのがキライだから、自然に体得した隠身法であった。
これらの秘術をカメが体得していることは、町の人々は知らなかった。
カメが井戸へとびこんで、それッきり物音ひとつきこえないから、ワッと泣きだしたのは女房で、髪をふりみだして多茂平のところへ駈けこんで、
「旦那さま。オラがあんまりジャケンなことをしたから、カメが井戸へとびこんで死にました。カメが死んでは、生きているハリアイもないから、オラも後を追ってとびこんで死にます。お騒がせしてすみませんが、チョックラ挨拶にあがりました。どうぞ線香の一本もあげて下さい」
と言い残して駈け去ろうとするから、
「オイ。待て、待て。井戸といえば、町内には共同井戸が一つあるだけじゃないか。そんなところへ飛びこまれてたまるもんか。オーイ。町内の皆さん方。出てきてくれ。大変なことになりやがった」
そこで町内の連中が井戸のまわりへ集った。
「え? なに? ひもじかったらゼニもうけてこい。エ
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