ちどき」に傍点]をあげながら我家の門をくぐるのである。明日の米はないのだ。細々と明日の米に生きるよりは、米を投槍に換えなければ「ならなかつた」のである。そして翌朝奥さんにどやされ、あはてふためいて友達の家に雑誌社に助力をもとめに駈けつけなければならないのである。友達に厭な顔をされ、てめえなぞとはもう絶交だなぞと言はれ、あるひは美事な義侠心にふれなければならなかつたのである。
 同じやうに、彼は「助平でなければならず(ゲーテのやうに)女房にかくれ仇な女によこしまな思ひを寄せなければならず」、然し彼は人に許された最も高度の純潔を持つた紳士であつた。彼が常に愛用した言葉をかりれば、ラ・マンチャの紳士のやうに、紳士であつた。
 設計しすぎた人生のために同時代の友人を失ひ、多感な青年ばかりが彼の親友になつた。同時代の人と言へば歌舞伎座の鈴木君ぐらゐのもので、そのほかの友人群に僕以上の年配の人は殆んどない。中戸川吉二氏と絶交の顛末なぞと言ふものは珍中の珍で、なんでも深夜泥酔のあげく、牧野さんは数名の青年を率ひ中戸川氏を叩き起したものらしい。その翌日私のところへ牧野さんから電話がきて、すぐ遊びに来て
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