でくれ、俺を一人にしないでくれと懇願した。然し母堂は海岸へ散歩にでかけた。
 帰つてきたのが五時半頃で、牧野さんの姿が見えない。台所で女中が夕飯の仕度をしてゐたのだが、牧野さんが納戸へはいつた姿は気附かなかつたのである。女中が部屋々々を探したあげく、納戸で英雄君のへこ帯を張り縊死した彼を見出した。

 誰の責任でもなかつたのだ。牧野さん自身すら。「夢が人生を殺した」のだ。それがほんとの真相なのだ。よしんば死を早めた多少の事件があるにしても、彼の如き純粋な死に限つてそれは全く問題にならぬ。彼の死は暗い事件ですらない。彼の文学と死の必然的なそして純粋な関係を見るなら、自殺は牧野さんの祭典だつたかも知れない。私はさう思つた。なぜつて彼の死ほど物欲しさうでない死はないのだ。死ぬことは彼にはどうでもよかつたのだ。すべてはただ生きることに尽されてゐた。彼の「生」は「死」の暗さがいささかも隠されてゐない明るさによつて、却つて余りにも強く死の裏打ちを受けてゐた。生きることはただ生きることであるために、却つて死にみいられてゐたのだ。だから彼の死は自然で、劇的でなく、芝居気がなく、物欲しさうでないのだ。純粋な魂があくまでも生きつづけ、死をも尚生きつづけたのではないか! 生きたいための自殺は世の多くの自殺がさうであるが、牧野さんは自殺をも生きつづけたと言ふべきである。彼はつひに死をもなほ夢と共に生きつづけたのだ。明るい自殺よ! とても憂鬱な顔附をしてお通夜なぞしてゐられたものではなかつたので、私は谷丹三をそそのかし、通夜をぬけでて小田原の飲み屋へいつた。私達は泥酔した。

 牧野さんは私達と酒をのむと、自分一人まつさきに酔つたあげく、(前にも述べたが彼は酒に弱かつた。そしてある時はてんで酔へず、ある時は又へべれけに酔つ払ふのが常だつた。そのへべれけに酔つた時にはきまつたやうに――)「おい、お前達はぬれ藁のやうにしめつぽく黙りこんでゐるぢやないか」と一夜に数回となくきめつける癖があつた。これはファウストの科白ださうだ。私達はお通夜をしりめ[#「しりめ」に傍点]に杯の数をあげながら、つまり今夜俺達は例のファウストの科白に復讐してゐるやうなものだなと言ひあつて呵々大笑したものである。そして翌朝まで帰らなかつた。

「ええ、ままよ」恐らく彼はさう呟いたに違ひない。「牧野さん[#「牧野さん」に傍点
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