出掛けの酒がきいたのかも知れないが、暗闇で秋水の顔も形も見えないのが、彼の神経を逞しくしたのかも知れなかつた。三平は肉体も精神も脆弱で、痩せたチッポケな身体は婦女子の一突きによろける程であつたし、その精神は常に結論を見失つて迷路の中をあがいてゐた。まつたく彼が四十になつてもまだ生きてゐるのは不思議だといふ取沙汰であつたが、然し、彼のチッポケな肉体にも彼なみの烈々たる希望はあつたのである。それは「夢と現実」といふことの派生した一つの解きがたい謎に就ての考察であつた。
 現に、見よ。眼前の暗闇に対座してゐる秋水といふ坊主に就て考へても、彼は生臭坊主であり食ひつめた果の山寺住ひであるにしても、共産党の赤旗を担いだり、山寺へ閉ぢこもつたり、彼には彼なりの夢と現実の交錯があり、その解きがたい綾糸の上をもつれ歩いてゐるのであらう。下根の秋水如きは問題とするに足りない。共産党と坊主そのものに就て考へれば、彼らはいづれもこの現実に彼等の夢を実現し得るものと信じてゐる。前者は共産主義社会を、後者は悟り、法悦の三昧《さんまい》を。ところで文学はどうであるか。荘子は夢に蝶となり、この夢の中の夢の自分と、現世の人間と、いづれが果して真実の自分であるか、之は一方のみに規定しがたいことであると言ひ、デカルトも亦同じ疑問にとらはれてゐる。だが、かゝる素朴な夢問答はともかくとして、こゝに文学の問題として、共産主義者や坊主の如くに、現世に於て実現し得ると信ぜらるゝ如き夢が実在するか。かゝる夢とは幸福の同義語であらうけれども概ね、文学の問題としては、かゝる幸福の実在を否定し、迷路と混沌、悲哀や不幸や悪徳の上にせめても虚無の仇花を咲かせようとの類ひである。然らばかゝる仇花が文学の現世に於て実現すべき夢であるか。なるほど文学の一面にかゝる悲哀のオモチャとしての性質は不変絶対の相を示してゐるけれども、之のみが全部ではない。――こゝのところで三平の思索は常に中絶し、こゝから先は酒を飲み、気焔高らかに酔つたところで、新らたな出発が始まるといふ具合であつた。だから彼の文学は酒の中に再生することによつて辛くも命脈を保つといふ憐れな状態であり、彼が爽快に酔ふことを如何に熱烈に、又、必死に、欲してゐるかといふことは、これによつて想像される。暗闇の中で声のみを相手に酔ひの廻つた三平が、すでにもうこゝから無限の距離をへだてた夢の世界へ誕生してゐる事実に就ては、秋水は何も知らなかつた。そこへ小僧が帰つてきた。
「オイ、小僧。お前は恋をしてゐるのか。可憐なことだ。こゝへお坐り。お前の悲しみに就て語つてきかせて呉れ。お前はその娘の目が好きなのか。亜麻色の髪の毛だけに恋をして痩せたといふ子供があるのだからな。その娘はお前を見ると今日はを言ふ前にきつと何か意地の悪い仕種《しぐさ》を見せるに相違ない。女は生れたときからもう腹黒いものだからな。ところが、そこが、男の気に入るといふわけだ。男はいつも傷だらけだ。靴となり、あの子の足に踏まれたい、か。お前の娘は、年はいくつだね」
「娘なんか、知らないや」
 と、小僧は腹立たしげに答へた。彼は吹けば飛びさうな三平を大いに軽蔑してゐたばかりか、腕力的にも優越感をいだいてゐて、全く見くびつてゐたのである。
「へん、ここは酒屋ぢやないや。店を締めるから、どいとくれ」
「ヤイ、コラ。無礼者」
 秋水は立上り、小僧の胸倉をとつて二三べんこづき廻した。測らざる伏兵が暗闇から現れたので、小僧はふるへ上つてしまつたが、時々どこからともなく現れる共産党くづれの生臭坊主は彼の恐怖の的であつた。なぜなら彼は共産党時代に牢獄で受けた拷問の実演を見せるために、小僧を後手に縛りあげて柱に吊し、長々と説明しながら「助けて下さい」と言ふと尚高く縄を吊りあげ、ブラ/\するとドサリと畳へ落しておいて頭から水をあびせるからであつた。「この吊り下げた足もとのところへ脂汗がタラリ/\と落ちるものだ。脂汗といふ奴は普通の汗と違つて粘り気があるから、崩れて流れずに一寸ぐらゐの山の形につもるものだぜ」秋水の説明が小僧の頭に悪魔の咒《のろ》ひの声のやうに残つてゐる。
「お助け下さい。秋水さん」
「お助け下さいとは何事だ。お助け下さいとは、お前が何も悪いことをしないのに、人が鼻先へ刀を突きつけた時に言ふことだ。そもそも拙僧を秋水さんとは不届千万な小僧め。主人の不在のたびに店の品物を盗みだして喫茶店へ通ふとは言語道断な奴だ。天に代つて取り調べてやる。貴様の惚れた娘といふのはいくつになる」
「三十八です」
「三十八の娘があるか」
「いゝえ、嘘ではないです。ア、ア、痛々。お許し下さい。死にます。死にます」
「その店の名はなんといふか」
「オボロといふオデン屋ですよ」
「フーム。オデン屋か。奇怪千万な奴だ。貴様は
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