ぢやないか。出掛けないと遅れるぞ」
「そんな話はきかないよ。お前は脳震盪を起してボケたのだらう」
「さては、さういふ事の次第かな。然し、待てよ。青眠洞がたしかに廻覧をまはしてよこして、娘が持つてきた筈だが」
「だから、それが幻覚といふものなんだ。第一、朴水の婚礼などが有る筈があるものか」
 ウームと中介は目をまるくして考へこんでしまつたが、気を取直して景気よく飲みはじめた。けれども酔ひがまはるにつれて、彼の意識はいくらか常態にもどつてきた。吾は目覚めたり! と彼は叫んで突然立上つてゐた。
「朴水の婚礼は幻覚ではない。先づ我等は青眠洞を訪ねてみよう。さうすれば万事は分る。けれども、もし幻覚だとこのアルコールが残念だから、この瓶にかう蓋をつめて之をポケットに入れて持つて帰らう。このコップも目盛があつて便利な仕掛であるから、之は紙につゝんで手に持つて行かう。水はどこかのウチの水道があるから、之は多分いらないだらう」
 中介は手際よく始末して信助をうながして病院をでた。病院から青眠洞まで長い道のりであるから、二人は時々見知らぬ家の水道をもらつて目盛をはかつて酒もりをした。青眠洞の店の奥では幽かな燈火の下でオカミサンがスルメを焼いて子供達に食事をさせてゐた。中介は挨拶の代りにスルメをつまみあげてものゝ五分間もかゝつて呑みこんだ。
「このアルコールには殺気が含まれてゐる。メスの刃のしたゝりだ。スルメによつて、この毒を消すことができる」
「あんたは朴水さんの婚礼に行かないの」
「ヤ、ヤッ。見よ。まさに、それだ! さあ、停車場へ急がねばならぬ。とはいへ電車の時間があるから、おい、今度の発車は何時だ。電車の中のオカヅにはこのスルメが調法だから、之を紙につゝんで」
「駄目だよ。ウチのオカヅがなくなるよ」
「俺のオカヅもなくなるよ」
 と中介は無理無体にスルメをポケットへねぢこんで、停車場へ向つて駈けだした。

 朴水の家ではてんで花嫁が顔を見せずに、然し、婚礼は盛大に進んでゐた。田舎の農家であるから燈火管制などは全然黙殺されて燈火は煌々とかゞやいてゐる。酒のために照りかゞやいた朴水は花聟の喜びに満悦して鼻ヒゲまでが生き生きと酔つぱらひ、一座の面々も大いに酔つてゐるけれども、まだ乱れてはゐないのである。之には多少の理由があり、朴水はともかく帝展の審査員であるから、一同も十分の一目ぐらゐは
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