は遺憾ながら俺の為にはペチシオ・プリンシピイの誤謬を犯してゐる。
 俺の理性が頼れうるものならば――余は酒樽の冠を被り樫の大いなる觴《さかずき》を捧げ奉つて、ロンサルの如くたちどころに神に下落するぞよ。
 ――愛する友よ。君は人間として甚だいたらん男ぢや。酒呑めば酒と化すことを、人間はその誇りとするものぢやよ。まま、ええさ。唄ひかつ踊り、寂しげなる村々を巡礼して悩みを悦びの如く詩にあらはし、一文の喜捨にも往昔の騎士に似て丁重なる礼を返し、落日と共に塒《ねぐら》を求めて山毛欅《ぶな》の杜へ消え去るのも一つの修業方法であるな。旅は人の心を空ッポにするものぢやよ。そのくせひどく感動しやすくなるもんだから、貴公のやうな鈍愚利《どんぐり》でも時あれば泌《し》むやうに酒が恋しくなるかも知れん。ああ! 酒呑まぬ男は猿にかも似てゐると、うまいことを言ふもんだねえ。賢《サカシ》ら人は、いやだねえ。ゲヂゲヂを思はせるよ、君。
 とわが友は暗澹たる顔をさらに深く曇らせてゲヂゲヂを払ふもののやうに觴を振り廻すのだ。わが友は日本にたつた一人の瑜伽行者《ヨーギン》だ。痩せさらぼうて樹下岩窟に苦行し百日千日の断食を常とするかの輩《トモガラ》です。業成れば幻術の妙を極めて自在《シジ》を得るところの、あれだ――が、俺の友達は酒樽の如く脂肪肥りの酔つ払ひだ。呑んだくれの瑜伽行者もないもんぢやよ、君。
 ――余は断じて酒をやめるぞよ。と俺はその場で声明した。ひたすらに理性をみがき常に煩悶を反芻して、見よ煩悶の塊と化するぞよ。右も煩悶左も煩悶、前も後も煩悶ぢやよ。目を開けば煩悶を見、物を思へば煩悶を思ひ、煩悶を忘れんとして煩悶に助けをかり、せつぱつまれば常に英雄の如くニタニタと笑ひつつ、余は理性を鉾とし城として奮然死守攻撃し、やがて冷然として余の頸をも理性もてくびくくるであらう。見よ、
 ――余は断じて酒を止めるぞよ。
 と俺は断乎として声明したのだが――まあ待ち給へ。聖なる俺の決心を永遠ならしむるために、も一度立ち戻つて事のいきさつ[#「いきさつ」に傍点]に詩的情緒の環をかけさせて呉れ給へ。

 毎年のことだが、夏近くなると俺は酒倉へサヨナラをする。それといふのが、夏は君、ペンペン草を我無者羅に俺達の酒倉へはやすからなんぢやよ。見給へ。夏が来ると俺達の酒倉はペンペン草で背の半分を埋めてしまふのだ。酒倉の壁の罅《ひび》からもペンペン草が頸を出す。同じ草が傾いた屋根の上では頭をふり、庭も亦一面にペンペン草の波なんだ。
 一体俺達の酒倉はこれでもれつき[#「れつき」に傍点]とした造り酒屋なんだけど、何分ここの亭主は自分の酒を自分一人であらかた呑みほしてしまふものだから、長い年月には母屋を呑み庭の立木を呑み(客ではない、無論亭主自身が呑んだんだ)、今では彼の寝室でありやがては棺桶であるところの破れほうけた酒倉がただ一つ残つてゐるばかりだ。だから君、夏がきてペンペン草が酒倉の白壁の半分を包み隠してしまふとき、俺は呆然として無から有の出た奇蹟をば信ずるに至るのだけれど――君が見かけ程詩人なら、疑ふべき筋合ではないのぢやよ。といつたわけで、ペンペン草は生え放第に庭も道も一様に塗りつぶすものだから、俺は酒倉への出入にペンペン草に捲き込まれてとんだ苦労をしてしまふのだ。足をからむとか蛇をふみつけるとかしてわあつ! と及腰《およびごし》になりかかると、鼻孔にまぎれ込む奴もペンペン草であるし懐にガサガサとなる奴も――ああ何処をどうして潜り込んだのか背中で何か騒ぐ物があるのもみんなこのペンペン草なんだ。俺はううんと呻えたまま天高く両腕をつきあげて進退ここに谷《きわ》まつたといふ印をしてしまふのだ。すると真夏の太陽がカアンといふあの変テコな沈黙でいやといふほど俺の頭を叩きのめすものだから、俺は危く目をまはさうとするのぢやよ。おお光よ、おお緑よ、おおペンペン草よ、怖るべき力よ、俺の若き生命よ。余は緑なすペンペン草の如く太陽のあるところへ一目散に駈けてゆかねばならぬ。ああ酒は憎むべき灰色ぢやよ、と俺は思ふのだ。
 ――酒は頑としてサヨナラぢやよ。
 と、そこで俺は憤然として酒倉を脱走するのだ。「ああ太陽よ」とか「おお生命よ」とか、まあそいつたことを喚きながら、俺は何分あまりにも興奮して酒倉を走り出るものだから、つい亦ペンペン草に足をとられて大概は四ん這ひになり畢り、酒は実に灰色ぢやよ、俺は頑としてそれを好まんよなどと叫びながら這ひ出してゆくのだつた。
 すると酒倉の亭主は――先刻御承知の瑜伽行者だが――ペンペン草の間から垣間見える俺の尻を見送りながら「木枯が吹いたら又おいでよ」と、ニタニタと笑ふのだ、「木枯が吹いたら又おいでよ」と、ね。
 まことに木枯と酒と俺は因果な三角関係を持つものである―
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