卒塔婆であらうかと目をすえると――ああ、これは背亀坐《ウッターナーサナ》を組む行者のグロテスクな尻であつたから、俺は思はず敬虔なる心をさへ起すところであつたのだ。
 もしや婆羅門の「いらつめ」「いらつこ」が古い日本の※[#「女+櫂のつくり」、第3水準1−15−93]歌《かがい》さながらに木々を縫ふてゐはしまいかと奥深く杜をうかがつたのだけれど、渡るものは風ばかりで、それでも気のせいか、何か遠くさんざめく物声にもききとれた。見るほどに、見渡す限り樹々を渡る、風の冴えた沈黙ばかりだ。
 ――わしは幻術を好まぬよ。(と俺はフラフラと立ち上つた)。木枯の如く酒の如く呪ふべきものは幻術ぢやよ。線なす菩提樹よ、椰子よ、沙羅樹よ、アンモラ樹よ、これらも亦甚しくわし[#「わし」に傍点]の気に入らんよ。俺の行く道は常に愉快なる茨ぢやよ。(ああ、俺は何と欺くべき小人であらうか!)、ああ愛すべき茨よ!
 と、尚も俺はフラフラと、ひどく陽気に歩き出し、クサを踏みわけて幾度も転げながらあのパゴダ――行者の御尻です――に辿りつくと、呪はれたる尻よ、とこれを平手でピシャピシャと叩いたのだ。すると行者は尚も幻術に無念無想で、股にもぐした丸顔には例の脂汗とニタニタが命懸けにフウフウと調息してゐるのだつた。
 ――余は断じて尊公の尻を好まんよ。
 と、俺も詮方なくニヤニヤと空しい尻に笑ひかけながら尚ほ暫く叩いてゐたが、やがて退屈して酒樽へ戻らうと足のフラフラを踏みしめて叢《くさむら》の中へわけ入つたのだが――(ああ、これも呪ふべき行者の幻術であらうか)叢に秘められた階段に足踏みはずして、酒倉の窖《あなぐら》へ真つ逆様に転り込むと、何のたわいもなく、俺は気絶してしまつたのだ――。

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  附記
 この小説は筋もなく人物も所も模糊として、ただ永遠に続くべきものの一節であります。僕の身体が悲鳴をあげて酒樽にしがみつくやうに、僕の手が悲鳴をあげて原稿紙を鷲づかみとする折に、僕の生涯のところどころに於てこの小説は続けらるべきものと御承知下さい。僕は悲鳴をあげたくはないのです。しかし精根ここにつきて余儀なければしやあしやあとして悲鳴を唄ふ曲芸も演じます。(作者白)
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底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
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