武蔵野に展かれた俺の窓から、脂ぎつた顔のニタニタをぬつと現す。
 ――愛する友よ、寒さは人間の敵だねえ。彼等はかつてナポレオンをオロシヤに破り、転じては若きエルテルの詩人を伊太利に送り、澆季《ぎょうき》の今日に於ては鈍愚利の尊公をも酒倉へ送らうとする。人間はかくの如く常に温かくあるべきぢやよ。その意味に於て尊公の心に萌し出でた本能の芽は聖なる鉢顛闍梨《パタンヂャリ》の三昧に比していささかも遜《ゆず》るところを見出しがたいのぢやよ。※[#「口+奄」、第3水準1−15−6]《オーム》※[#「口+奄」、第3水準1−15−6]《オーム》、(箆棒《べらぼう》め)といつたものぢやよ。
 と言ふのだ。
 俺は憤然として何事かを絶叫しやうと思ふのだが、うかつに絶叫しては頤のゼンマイから必然的に頭のゼンマイへかけて狂ひ出す怖れを感じるものだから、絶望的なニヤニヤを笑つて行者のニタニタを眺めてゐるのだ。すると俺の心臓はひどく憶病になつて次の一秒がばかに恐ろしく不気味に思はれ、沈黙に居堪《いたたま》らなくなり出すから、もうおさへ切れずにわあつ――と叫ぶと――
 一つぺんに階段を跳び降りて雨戸を蹴破ると、もう武蔵野の木枯を弾になつて一条にころがつてゐるのだ。
 わあ!
 助けて呉れえ、冬籠りだあ!
 と、かやうに声高く武蔵野を喚きながら、俺は酒倉の戸を踏み破つて――
(俺達の酒倉では二十石の酒樽から酒をのむのぢやよ)
 ――二十石の酒樽を抱きかかへるやうにしてグイグイ、ぐいぐいと酒の灰色を一息に(茨ぢやよ)あほるのだ。木枯がペンペン草を吹き倒すとき、俺は毎年もとの酔つ払ひに還元してしまふのだつた。
 こうして俺、聖なる呑んだくれは、武蔵野の木枯が真紅に焼ける夕まぐれ足を速めて酒倉へ急ぐのだが――すると酒倉の横つちよには素つ裸の柿の木が一本だけ立つてゐるのだ(君は勿論知るまいが――)。この柿は葉が落ちても柿の実の三つ四つをブラ下げて、泌むやうな影を酒倉の白壁へ落してゐるのだが――俺は毎日このまつかな柿の実へ俺の魂を忘れて、ふいと酒倉へもぐるのだ――と、こう思ふのがせめてもの俺の口実なんだ。だから俺は安心して、あれとこれとは別物だけれど、まるで魂を注ぐやうに、酒樽にとびかかると、ぐいぐいぐいぐいと酒を魂を呑んぢまふんだあ! 概して俺はこの酒倉で最もへべれけに酔つ払ふ男の唯一人で、酒倉の階段を踏
前へ 次へ
全13ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング