形したか大海に消えたであろう。
 バラバラ事件は被害者の身許不明。他に光明をもたらす可能性の見込みなく迷宮入りとカンタンに片づけられたが、これに不服をのべる刑事もいない。楠も不服どころか、穴あらばはいりたいだけのことであった。
 ところが盛夏の一日、結城新十郎が隅田川へ水遊びとシャレて、その途次にちょッとこの署に立寄った折、このバラバラ事件に注目した。と云うのは、かなり離れた物置きの底へムリに隠しこむようにしておいたバラバラのアルコール漬けが、盛夏の暑気に臭気を放って仕様がない。適当に処置の方法はないかと面々がワイノワイノと論争中に新十郎が現れたからで、
「ハハア。迷宮入りのバラバラの実物はこれですか」
 とアルコール漬けに眺め入り、
「すると、この被害者らしいと思われる行方不明者が見つからないのですか」
「行方不明の届出は相当数ありましたが、諸条件の全部にピッタリ合うものがなく、ややムリをして合わせても七割方合わせる可能性のものすらもないのです」
「東京市の行方不明者ですね」
「そうです。その周辺の郊外も含め、特に隅田川流域の町村のものは含まれています」
「よっぽど不用な人間らしいですなア、このホトケは」
 新十郎はバラバラ事件の書類を入れた分類箱の中のものを改めていたが、やがて一冊を読みだすと次第に目に情熱がこもり、やがて一心不乱に読みはじめた。それは楠の苦心の報告書で長文の六冊だから、この場所はその読書に適さないと見切りをつけたが、書類をふせて、
「これを書いたお方にお目にかからせていただきたいものですね」
「それを書いた大人物は――と。その大仕事ができるのは沈着な楠のダンナに限る筈だが。ハテ、楠のダンナはどこへ行ったかや? 探す時には必ず見えないという人物だなア。どこにいるか。ハハハ。そこにいたか。ごらんのように、これだけワイノワイノと呼びたてられてからオモムロに溶けたような顔をあげて見せるという落ちついた大人物で」
「ヤ、どうも。あなたがこれをお書きになったのですね?」
「ハア。イカン。シマッタ!」
「ハ? シマッタ、ですッて? なんのことでしょうか。この報告書に『わがバラバラ日記が、当日の印象を記録せるを引用すれば』とありますが、バラバラ日記はお手もとに保存なさっているでしょうか。それを拝見させていただきたいのですが」
「もう焼きすてちゃッたかも知れんですが」
 とマッカになってモゴモゴとごまかしたのは実はウソで、焼きたいとは思ったけれども、なんとなく惜しくて焼かなかったのが本当。
 新十郎にたって所望されて、是非なくそれを家から取ってきた。新十郎はそれを受けとって、大よろこび。
「報告書とバラバラ日記はお借りしますよ。あなたは大タンテイの素質をお持ちのスバラシイ方ですね。見かけによらず、日本は人材の国だ。あなたの存在を知って、日本がたのもしくならなければ、その人は目がフシ穴で、頭は大方左マキだ」
 新十郎は楠にこういうお世辞をささやいて、益々楠を赤面させて、消え去った。

          ★

 新十郎がその報告書と日記を返しに来たのは一週間ほどの後である。人気のない別室へ楠に来てもらって、差向いに坐って、くつろがせて、
「あなたはこの報告書の次にくるべき調査をなぜ中止なさったんですか」
「その報告書を書きあげて持参した日に、一人の先輩がふと思いついて、たッた三軒の料亭に狙いをつけて訊いてまわると、三軒とも連日のようにタケノコを使っていたと分ったんです」
 と、その日のことを新十郎に語った。新十郎はそれをきいてただただ呆然また呆然たる顔。
「実に運が悪かったですね。運が悪い時は、まさにそんなものですねえ。こんなことが、いつかは、誰にでも起りうる。実にユダンできぬ怖しいのがその偶然ですよ。あなたにとっては貴重なイマシメだと思いますが、その三軒の料亭でもタケノコを使ってる、また、そのほかにも使ってる店があるかも知れないと分った上で、もう一度この報告書へなぜ戻る勇気を失ったのでしょうか。あなたは他の場合にも、不当に勇気を失いすぎていますね。いまその例を示して説明いたしますが、己れの無力を怖れ悲しんで勇気を失うことを知る者は賢者です。怖れを知る故に、その賢者の力は生ある限り伸び育ち発展します。ですが怖れ悲しむ次に、大勇猛心をふるい起して死するとも己れの道を退かぬ正しい勇気を忘れてはいけません」
 新十郎は可愛くて仕方がない子供をさとすようだ。そして語った。
「あなたの日記は面白いですね。整理したものでなくて、人に読ませる気兼ねがないから、大胆率直で面白いですね。そもそもこの事件にあなたが深入りした発端は、最初の二ツの包みをあなたが拾ったインネンですが、またそのインネンを裏づけたものは、第一と第二の包みの中味が右と左の
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