甚だ不満なところもあるが、男爵令嬢たる女房の尻にしかれてマンザラでないような気持もあった。
 父が死んで、自分の代になった。親ゆずりの稼業をつぐ者にとっては、これは最大の一転機である。親が死んだら、ということは物心ついての彼らの最大の仮定なのだから、このときから人間がガラリと変ってもフシギではない。オッチョコチョイの半生にもその時の含みをのこして色々の複雑な下地ができている。半生がその転機にそなえる下地のようなものでもあった。
 小沼男爵が坂巻多門という生糸商人をつれてきて、
「この男はウチの家令の坂巻典六の兄に当るもので、身許は確かな人物だから、信用して話をきいてやってくれたまえ」
 とひき合わした。
 家令の坂巻典六は久五郎の父が要心していた曲者だった。貧乏華族を承知で仕えているのは大バカか、下心のある曲者か、どちらかにきまっていよう。そして見たところバカではないらしいから曲者だというのが、先代の商人らしい判断であったから、これという曲者の確証があるわけではない。
 その兄だときいて、久五郎もひそかに要心は忘れなかった。多門の話はこうだった。
「昨年末以来、生糸が暴落に暴落を重ね、
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