ま私が身をよせた伊勢屋さんのオトクイ様ときいて、益々なつかしく、御当家ならばね、とふと希望をもらしたのが案外にも本当の話になったのでした」
「御当家へ奉公ののち、周信さんの話の通り若夫人がたしかに彼の昔の恋人だと思い当るようなことが有りましたか」
「それはついぞありませんでした。お側近くお仕えしたことがめッたにありませんでしたし、直接のお言葉をいただく例もまずなかったと申してよろしいほどですから」
「兄上とハマ子さんとは寮へ引き移るまでは特に親しい素振りがなかったのですね」
「主人と女中の関係以上に親しいという素振りはついぞ気づかなかったのです。私のウカツかも知れません。奥の間で私と周信さんの言い争っているのを兄さんと一しょにハマ子もきいたと申しているのですから、私の気づかなかったのがフシギだったのかも知れません」
「その奥の隣室には、兄さんはともかく、女中が勝手にふみこむイワレがないと仰有る意味ですね」
「女中が勝手に来ていけない部屋とは申しませんが、男主人がそこに居ると知りながら、御用でよばれたワケではないのに奥の部屋へ参るのは不審です。ハマ子が単に女中ならば主人の姿を見て振向いて戻ったでしょう。もっとも当日のハマ子はウロウロと面白そうに諸方の部屋々々の騒ぎを見物に歩き廻ってはいましたが」
「奥の部屋まで見物にでかけるような特に変ったことはなかったのですね」
「私と周信さんとが奥の部屋へ姿を消したのに気がついて、それを見物に近づいたのかも知れません。また兄さんも私たちの立聞きが目的かも知れませんね。小心で何もできないお坊ッちゃんに見え、またそのようなフリをして見せることが本能のような兄ですが、実は立聞きだの、隠し物だのと、人の目を盗むことにかけてはとても素ばしこくて天才的な術にめぐまれているのです。その早業を見破られて後の処置にも天分があって無限にそらとぼけて、ただなんとなく顔をあからめて世なれない坊ちゃんらしくゴマカシおおす手法なんぞ、みんな生れつきの本性なんです」
「あなたは日記をつけていますか」
「いいえ。つけたことがありません。ですが特に変った出来事の日附でしたら、日記につけずに頭に記憶しておく程度の代用のハタラキは持ち合わせております」
「例えばこの半年に起った大変化のうちで、どのような出来事の日附を覚えていますか」
「たとえば、小沼家の方々が政子さん
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