近いが、このドアはカギをかけたまま開けてはならぬ定めであるから、廊下を一曲りして控え部屋へ案内した。ここに大伍が待っていた。二階は陳列室と控え部屋の二間しかない。陳列室は南北に十二間、東西に五間の広間。北と西が廊下で、西の廊下を突き当ると控えの間。突き当って折れると玄関へ通じる階段だ。
「伊助さんだね?」
 大伍は立ち上って訊いた。彼は初対面らしい。
「そうです」
 と答えると、大伍はだまってうなずき、ドアをあけて伊助を兄の部屋へ通したのち、
「誰が来ても中へ入れるな」
 ナミ子にこう命じた。内部からドアのカギをかける音がした。
 ナミ子は伊助を見分けることができるかと心配だったが、織物の行商人は一目でたちまち判るものだ。上体の倍もあるような矩形の大包みを背負ってるから、きかなくとも分った。塀についてひろい庭を半周させるのが気の毒だから、
「重いのに大変ですね」
 と云うと、
「なれてるから、なんでもない」
 と答えた。なるほど小男ながらガッシリと逞しい骨格であった。二人の会話はそれが全部であった。
 ナミ子が一人になって十分ほどたつと、急いでやってきたのはオトメであった。この無遠慮な訪客は何よりも危険人物だから、
「いけません。いけません。この時間はいけません。お休の時間です。お客さまはもとより奥さま坊ちゃまですら御面会は夜の七時から十時までと定まっています。そのことは御存知でしょう。ましてあなたは面会の御許しがないのですから、ここへ近よるのも御遠慮なさるのが当然です」
 ナミ子は立ちはだかって制したが、ムキになりすぎて語気が荒かったから、オトメを怒らせてしまった。
「私はこのウチの長女だよ。全作さんにも姉に当る私だよ。女中風情が、無礼じゃないか」
「それはすみませんでしたね。ですが、私の役目ですから、お通しするわけには参りません。大声もいけません。この時間には皆さんが遠慮なさるのですよ」
「ですがね。今日は来ないわけにはいかなかったのよ。神様のお告げなの。私が見ていてあげないと、あの人は殺されるのよ。神様がハッキリそう仰有《おっしゃ》った。マチガイはありません」
 ナミ子の制止がきいて、にわかに遠慮ぶかい小声になったが、目はギラギラ光っていたし、激発を押えている意気ごみが察せられた。思いがけない言葉で、小声のためにかえって薄気味わるかったが、この婆さんが狐ツキのフーテン病みだという定説を考えれば、意気ごみはとるに足らない。自分の役目が必要なのは、こんな怪人物がいるせいだ。
「十かぞえるまでに帰って下さい。それが私の役目です。あなたの騒ぐのが旦那様の御病気に何より悪いのです。女中と侮ってはいけません。役目ですからイノチガケですよ」
 若い娘だから、相手の気勢に輪をかけて応じた。それをジッと見て、とてもダメだとオトメは観念したらしい。
「ちょッとだけおイノリします。死神をおとすおイノリをね。ほんとに、仕様がない」
 目をとじて合掌して、ナム、クシャクシャクシャと唱えるうちに、合掌の手が延びたり輪をえがいたり縮んだりニュッと横をさしたり、それにつれて、ナム、クシャが急に大きくなッたのでナミ子がハッとしたときに、ピタリとやんだ。瞑目して、静かに合掌、最敬礼。祷《いの》り終ると、サヨナラも云わずに、さッさと戻ってしまった。
 そう長くは待たなかった。二人は陳列室から出てきた。八時三四十分であったろう。大伍はドアのカギをかけ終えて、
「伊助さんはここで待っていなさい。では一ッ走り行ってくるから。一時間あまりかかると思うが、伊助さんがお待ちの間は、ナミはさがっていなさい。お茶をあげるがよい」
 こう云いのこして、大伍は急いで階段を降りた。ナミ子も云われた通り、伊助を残して下へ降りた。一度だけ茶菓を運んだ。伊助はイスの中に深くめりこんで目をとじていた。

          ★

 大伍が戻ったのを認めたから、ナミ子はその後について二階へ行った。大伍は伊助をみちびいて再び陳列室へ消えた。十五分すぎた。ナミ子は柱時計を見ていたのだ。やがて二人はそろって病室から退出した。ヤレヤレ、これで用がすんだと、大伍が出てきてドアを閉じたと思うと病室のオルゴールが鳴った。「来い」という合図のオルゴールだ。大伍はとって返したが、一分もかからぬうちに戻ってきた。
「さて、用がすんだ。ナミはお連れした道を通って、伊助さんをお送りしてあげるがよい。庭木戸から出て塀に沿うて門まで、アベコベに一通りやりなさい。来るが如くに去る。去るところを知らずかね。伊助さん。ゴキゲンよう」
 伊助は無言で頭を一つペコンと下げただけだ。重い荷を背負って歩きだした。まったく来た時も去る時も、伊助は同じであった。重い顔、無言、そしてテクテク歩いてる。
「織物を買っていただいたんですか」
 思いついたことを訊いてみると、
「そうだ」
 と答えただけだった。彼の方から一度こう訊いた。
「旦那の病気は何だね。ウミの匂いがプンプンする」
「オヘソのあたりや腰や股に銅貨ほどもある孔がいくつもあいて、絶え間なしにウミがにじみでているんですッて。ウミの匂いが強くなると香水をまくんだけど、今日は香水をまいてないのね」
 会話はそれだけで全部であった。塀に沿うて半周して門の前で別れた。伊助はまた頭をペコンと下げただけで振向きもしなかった。
 ナミ子が二階へ戻ると、控えの間から立ち去る大伍とすれちがった。
「旦那様はお疲れだ。これからようやくお寝《やす》みだから、誰も近づけてはいけないよ。三四時間はオレに用がなかろう。オレも早起きしたから、ねむたくなった。オルゴールがなるまでお部屋に入らぬがよい」
 言いのこして彼は去った。まったく旦那はお疲れだろうとナミ子は思った。七時からの三四時間は熟睡のオキマリだが、それを起きていたのだから、当分はお目ざめがあるまい。時計を見ると、十時ちょッとすぎたところ。ふだんなら大伍の御出勤時間。本日はアベコベだった。
 当分お目ざめがあるまいと確信のせいか、本を読んでるうちについウトウトしかけたり、ふと気がついて本の続きを読んだりした。ウトウトしたと云っても、二三分間のことだ。安心はしていても、ナミ子は役目を忘れなかった。その心がけを見こまれて全作が特に係りに選んだのだ。ナミ子はその責任も感じていた。だからウトウトしても物の気配を感じる程度に、浅く、また短かかった。
 思いがけなくオルゴールがなった。ちょうど時計が十一時をうってるところだった。一時間しかたたないのに、もうお目ざめかとナミはおどろいて立ち上った。習慣はこういうものだ。七時にねて十一時に目をさます人は十時にねても十一時に目がさめる。ナミ子はドアへ走った。
 ドアにつづく壁際に小卓があって、成子のカギはいつもその上に置かれていた。勤務時間が終ると、成子は自分のカギをそこへ置き残して去る。ナミ子はカギを持たないからだ。
 カギは二ツあった。一ツは大伍が持っていた。大伍はカギを肌身離さなかった。
 小卓の上を見たが、ある筈のカギがない。ナミ子は卓の下を探した。それから、部屋中を探しまわった。オルゴールが同じ歌を六七回もくりかえして鳴りやんだのに、カギが見当らない。
 ナミ子の胸は早鐘のように鳴りだした。大変なことになった。思い当ることがありすぎる。
 これだけ探しても見当らなければカギは盗まれたに相違ない。ドアの開けたてごとに大伍はカギを使っていたが、あれは彼のカギだし、開けたてごとにカギをかけるのは彼のいつもの習慣だ。
 伊助がこの部屋に大伍の帰りを待っていた一時間あまりの間はナミ子がこの部屋にいなかった。伊助がカギを盗むことはできるが、彼にはその必要がなかろう。また、伊助が一人で居るとき誰かが来てカギを盗み去っても、伊助はその目的に気づかないであろう。
 けれども、誰よりも疑わしい犯人にナミ子はまッさきに気づいていた。オトメが早々に現れて、死神をおとすおイノリと称して、タコ入道の踊りのように合掌の手をふりまわした。二本の手が八本以上にも見えたほどクネクネと目をあざむくばかり、予測しようもない動きであった。あの怪しい手が盗んだのかも知れない。そして、他の誰に盗まれてもさしたることはないが、オトメに盗まれたとなると気がかりである。三日にあげずやって来てムリにも中へ入りたがるが、カギがあれば自由に忍びこむことができる。
 ナミ子はふと気がつくと、おどろいて、跳びあがった。そして、一目散に廊下をまがって北のドアへ走った。把手に手をかけて引いた。カギがかかっている。ホッとした。
 二ツのドアは同じカギで間に合うのだ。内側と外側からも同じカギで間に合う。北側のドアをあけないのは、出入は西のドアに限ると云い渡されているからにすぎない。云い渡しをまもらない人はカギさえあればいつでも北のドアがあけられるし、カギを盗んだ犯人は云い渡しをまもらない者にきまっている。
 ナミ子は大伍の部屋へカギを借りに走って行った。部屋には寝床が敷きッぱなしてあって今まで寝ていた様子だが、彼もまた十時にねても十一時には目がさめざるを得ない習性に負けたのかも知れぬ。
 中年まで概ね浮浪生活の大伍は三度や五度は女と同棲したかも知れぬが、キチンとした女房らしいものは一人もいなくて、目下は悠々独身であった。
 人々にきいてまわると、大伍は十分ほど前に壮士のステッキをふりまわして散歩にでかけたそうだ。
 こうなっては遠慮していられないから、成子の部屋へ行って、ゆり起した。
「申訳けありません。オルゴールが鳴ってるのにカギがなくてはいれないのです。いつもの小卓の上に置いて下さったのでしょうね」
「ええ、そうよ」
 成子はムッツリ答えた。成子は機械と同じように習慣的に行為する人であった。たとえば勤務を終って出るとき肩を並べて一しょにドアをくぐっても、ハイ、と云ってカギを手渡さずに、小卓の上へ黙ってカギを置いて行く人であった。そして、その習慣を忘れることが考えられない人であった。
「カギがなくなったの?」
 成子の目の色は深かった。彼女も何か思い当ったような目の色だった。
「盗まれたんだわ。思い当ることがあるの。朝の八時ごろオトメさんが押しかけてきたのよ。旦那様が今日殺されるお告げがあったからですッて。そして、死神おとしの変なオイノリをして立ち去ったのよ。オトメさんの手は小卓の上をクネクネと舞っていたけど、私はそのときカギのことは考えていなかったの。私は今朝からカギを注意したことがなかったのです。自分でカギをあけてお部屋へ出入する必要もなかったから」
「誰だって必要のない物には注意を忘れがちだわ」
 と、成子は軽くうなずいて言った。
「オトメさんがカギを盗んでも病人の前でオイノリするぐらいでしょう。一度使って気がすめば返してくれるでしょう」
 成子はこう笑って、この問題にケリをつけた。話題を転じて、質問した。
「織物の行商人は何しに来たの?」
「私は別室にいたから分らない」
「たしかに変ったことがあったと思うな。私がここへ来ての三年間に、今日だけがいつもと変りのあるたった一日だったから」
「何が変っていたの?」
「今日一日だけ、病人の心が浮き浮きしていたのよ。私はハッキリ認めたのよ」
 ナミ子は同感とまでは行けなかった。そんなに浮き浮きしていたろうか。ナミ子は変りが思いだせなかった。だが、黙々たる来訪者はいくらか変っているかも知れない。行商人なら、お喋りが普通だろうに、とにかく石地蔵ではないことが分る程度にしか喋らなかった。あれでは反物がはけなかろうとナミ子は思った。

          ★

 ナミ子が控えの間へ戻っていると、大伍が来た。ナミ子がせきこんでカギの報告をしたが、大伍は動じなかった。
「誰がカギを盗んでも大したことは起らない。え? 兄貴は十一時に目をさましたかい。今が十一時半だね。また眠ってしまったらしいな。今さら慌てて、ヘイ、御用は? と駈けつけることはない。とにかく習慣とちがったことをやったから、目をさませば戸惑って、一応オルゴール
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