ダラシなく喜怒哀楽がこもっている。人々に呪われて生きていた全作は人を凍らせるように冷い人間だったが、殺されて冷くなったせいか、彼の冷さの凄味が甚しいものでないことが妙子に分ったような気がした。冷く見える冷さはタカが知れている。
 大伍は彼の職務の本体がなくなったから、便器を中心に一意精励努力する焦点がくずれて、その虚脱を最も象徴的に示しているのが鼻ヒゲだ。彼はもう川田のように妖気や威厳をおびて歩くことはできない。彼が昨日まで歩いていた部屋には川田が歩いている。そして彼自身は女中部屋でウタタネしていた。
「主人が死んでも女中はヒマをだされるとは考えていないな。女中は家についてる動物だ。犬は主人につき、猫は家につく、ところでオレは犬に似ている。葬式がすむと、新しい主人を探さなければならない」
 大伍はねころんで呟いた。
「オレの主人を誰が殺したか。そんなことはどうだっていいや。ただ彼が死んだということはオレ自身の問題だが、死んだ奴が地獄か極楽へ行くのにくらべて、オレの行先はハッキリしないな。ただこのウチがオレの住宅区域でなくなったのは疑えない」
 病人の家から家に無限の職場がつづいている成子にはこの心境は無縁であった。そこで成子は考えていた。
「この初老の浮浪児は楽天的だが、ウワベに見せていることと、腹の底とは違っているようだ。川田に妖気があるなんて、つまらない。ナミ子に見える妖気なんて、ちッとも凄味はありやしない。やっぱり人を殺すのは静かなタダの顔ではなくて、オトメのような気違いがやるのだ。その一瞬間には、そうでなければならない。外科の先生が患者の片足をノコギリで斬り落すようなタダの静かな顔で人殺しはやらない。勤務時間中は一意精励マイシンしている鼻ヒゲ男が昨日に限って二時ごろから七時までヒルネをしていたのは奇妙だが、ほんとにヒルネしていたのかしら。この男は何かを偽っているに相違ない」
 しかし、この時間には同時に成子もねていたのだ。そして彼女以外の女たちは、成子の疑問に答えてたちどころにこう証言したであろう。初老の鼻ヒゲ男は疑いもなくその時間には大イビキでねむっていた、と。むしろ成子がその時間に寝ていたことの方が人々には信じる根拠がない。十一時三十分にナミ子に叩き起されてから彼女が再びねたかどうかは誰も見ていやしないのだ。
 新十郎一行は午すぎに到着した。

    
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