うね」
「ええ、そうよ」
成子はムッツリ答えた。成子は機械と同じように習慣的に行為する人であった。たとえば勤務を終って出るとき肩を並べて一しょにドアをくぐっても、ハイ、と云ってカギを手渡さずに、小卓の上へ黙ってカギを置いて行く人であった。そして、その習慣を忘れることが考えられない人であった。
「カギがなくなったの?」
成子の目の色は深かった。彼女も何か思い当ったような目の色だった。
「盗まれたんだわ。思い当ることがあるの。朝の八時ごろオトメさんが押しかけてきたのよ。旦那様が今日殺されるお告げがあったからですッて。そして、死神おとしの変なオイノリをして立ち去ったのよ。オトメさんの手は小卓の上をクネクネと舞っていたけど、私はそのときカギのことは考えていなかったの。私は今朝からカギを注意したことがなかったのです。自分でカギをあけてお部屋へ出入する必要もなかったから」
「誰だって必要のない物には注意を忘れがちだわ」
と、成子は軽くうなずいて言った。
「オトメさんがカギを盗んでも病人の前でオイノリするぐらいでしょう。一度使って気がすめば返してくれるでしょう」
成子はこう笑って、この問題にケリをつけた。話題を転じて、質問した。
「織物の行商人は何しに来たの?」
「私は別室にいたから分らない」
「たしかに変ったことがあったと思うな。私がここへ来ての三年間に、今日だけがいつもと変りのあるたった一日だったから」
「何が変っていたの?」
「今日一日だけ、病人の心が浮き浮きしていたのよ。私はハッキリ認めたのよ」
ナミ子は同感とまでは行けなかった。そんなに浮き浮きしていたろうか。ナミ子は変りが思いだせなかった。だが、黙々たる来訪者はいくらか変っているかも知れない。行商人なら、お喋りが普通だろうに、とにかく石地蔵ではないことが分る程度にしか喋らなかった。あれでは反物がはけなかろうとナミ子は思った。
★
ナミ子が控えの間へ戻っていると、大伍が来た。ナミ子がせきこんでカギの報告をしたが、大伍は動じなかった。
「誰がカギを盗んでも大したことは起らない。え? 兄貴は十一時に目をさましたかい。今が十一時半だね。また眠ってしまったらしいな。今さら慌てて、ヘイ、御用は? と駈けつけることはない。とにかく習慣とちがったことをやったから、目をさませば戸惑って、一応オルゴール
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