も必要であった。
 父の用を果して、由利子が自室にくつろぎ、寝床について間もなく柱時計が十二時を打った。そのころまでは、蛭川真弓は生きていた筈であった。
 翌朝、寝床を血の海にして死んでいる真弓の姿が発見された。
 弓の矢が心臓を射ぬいていた。そして死んだ顔には、天狗のような鼻の高い目玉の大きな面がかぶされていた。猿田彦の面のようなものであった。
 発見者は由利子であったが、彼女の報らせで兄とともに駈けつけた川根は兄と妹がそこにいることを忘れたように、一足一足ふるえつつ退いて、叫んだ。
「オーカミイナリだ! あれ[#「あれ」に傍点]と同じだ! 神の矢で一うちに殺されている! 猿田の面をかぶされている! あのタタリが十五年間、まだとけていなかったのだ」

          ★

 新十郎一行が日本橋の蛭川商会へ案内されたのは二日後のことである。現場はすでに取り片づけられていた。
 真弓の居室は店からはいって一番奥の離れのような別棟であった。廊下を渡ると扉がある。扉の向うが真弓の部屋で、まず便所があり、十二畳の椅子テーブルのセットを置いた板敷きの間があって、北側が土蔵の入口になっていた。
 その奥に十畳の茶の間と六畳の小部屋があり、突き当りが十二畳の寝間であった。南側がちょッとした庭。その片隅にイナリがあった。北側にも小さな庭があり、西はすぐ塀で、裏木戸があるが、これは道路側からは開けることができない。手がかりがないからである。
 犯人は六畳の小部屋の北側の窓をあけて外へ降り、木戸をあけて逃げ去ったもののようである。窓が開いていたから、逃走の経路は分った。北側は土蔵によって母屋とさえぎられているから、そこを逃げ口に選ぶのは当然だったが、侵入の順路が分らない。
 由利子は父の入浴中に各部屋の雨戸を閉じた。六畳の雨戸もそうである。上下の桟を特に注意しておろすことも忘れなかった。ところが雨戸には外側からムリにこじ開けた形跡が全くなかった。
 廊下の戸は父の側からは錠をかけることができるが、今まで錠をおろした習慣はないし、その朝も錠はおろされていなかった。
 廊下のこッちは中庭に面して由利子の部屋があり、階段を登ると久雄の部屋があった。由利子の部屋の隣室に四人の女中が眠り、その向うに台所や湯殿がある。他は階上階下ともに空屋である。台所用の土蔵も附属していた。
 さらに一ツの中庭をはさんで店がある。店の土蔵が二ツあった。六人の小僧や手代が土蔵の入口の一部屋にザコ寝していた。
 店と母屋の廊下は戸でしきられ、この戸は由利子が寝る前に必ず錠を改めた。店の男たちと母屋の女たちの境界をまもるのは、母なき後は由利子の責任の一ツであった。その晩も寝る前に改めた。錠はおろされていた。
 翌朝六時の定刻に起きた早番の女中オタツが七時ごろ廊下の戸の錠をはずした。錠はまちがいなくかかっていた。
 店からの侵入はこの戸にさえぎられて不可能であり、母屋全体の戸締りにも異常はなかった。すると、侵入口が問題であった。
 新十郎は離れの各部屋、その押入や便所も改めた。土蔵の錠は常におろされている。便所の汲取口にも異常はない。
 由利子の申し立てによると、彼女が父の食事をさげているとき(女中たちは先にやすませた)同時に父が入浴に立ったので、彼女がまだ雨戸を締めぬうちに、離れが無人になった何分間かの時間はあった。
 六畳は母の死後はあんまり用のない部屋である。その押入の戸が半開きになっていたという。そこには泥棒が狙うような品物は全くなかった。その長持の裏側に人が一人ひそむに足る空間があった。犯人は離れが無人になった何分間かに素早く侵入してそこに隠れていたのではないか、というのが人々の一致した意見であった。
「その長持の後側に小さなお守りのようなものが落ちていました。紙の包みをあけてみると、中味は金メッキのお守りで、大倭大根大神《オーヤマトオーネオーカミ》とあるのです。これはオーカミイナリの祭神の名だそうです」
 古田巡査が説明した。
「大倭大根大神とは聞きなれない神名ですね」
 新十郎がこう呟くと、古田は答えて、
「左様です。それがオーカミイナリの神主家の先祖に当る神様だという話です。こんなところにお守りが落ちているのは解せないことだと当家の者は言うのですが」
 新十郎はうなずいた。
 何から何までオーカミイナリが附きまとっているのである。蛭川真弓の心臓を刺しぬいていた矢は、ヤジリが六寸もある尖った鋭い刃物であった。ヤガラは朱塗りで、矢羽は雉の羽を用い、それはオーカミイナリ独特の神の矢であるという。
「番頭川根の語るところによりますと、今から約十五年前、蛭川家がまだ武蔵の国賀美郡の故郷におったころ、先代の番頭今居定助と申す者がこの神の矢に射ぬかれて殺されたという話なのです」
 そこで新十郎は番頭川根をよんで話をきいた。川根は四十がらみの、一見番頭の風ではあるが、どことなく農家育ちの香がぬけきらぬガッシリと骨太の小男だった。
「私が当家へ御奉公にあがりましたのは当家上京後のことですから、当時の事情をつまびらかには存じませんが、殺された当主とオーカミイナリにはモンチャクがあったようです。御維新直後に各神社の系図や古文書の調査がありました折に、当時児玉郡で庄屋のような仕事をしておった当家主人が県の命令によって各社の古文書を集めておりました。ちょうどオーカミイナリの系図や古文書を当主直々に出張して借りうけて参った当夜、あいにく屋敷から火を発して、五ツの土蔵を残すほかは住居が全焼いたしました。困ったことには、オーカミイナリの古文書を郡役所へ保管せずに自宅へ持ち帰っておりました。なにぶん一風変った由緒を申し立てているオーカミイナリですから、その古文書をあらためたいという慾望が起るのは自然のことで、何をおいてもさッそくそッと読んでみようという気持になってのことでしょうが、あいにく当日深夜に失火して屋敷もろともオーカミイナリの古文書も焼失してしまったのです。さア、それからが大変で、自ら大神の子孫と名乗り特別の由緒を言いふらしているイナリですから、その怒りが一様ならぬものであったことは当然です。いかに当家が詫びてもきき入れませぬ。再々|強談判《こわだんぱん》を重ねたあげく、一夜のこと当家先代の番頭今居定助と申す人がオーカミイナリの先祖の古墳と申すところで神の矢に射ぬかれて殺されておりました。今回と同じように朱塗りの独特の矢で、また、屍体の顔にも今回と同様に猿田の面がかぶされておったそうです。ところが当日はオーカミイナリに祭儀がありまして、神主が深更まで神前に奉仕しておりましたのを多くの拝詣人が見ておりますので、彼が犯人でないことは明らかになりました。オイナリ様直々のタタリだということになりましたが、当家が故郷をひき払って上京したのは、これが原因で、どうしても居たたまらなかったのでしょう。上京後、当家に於ては、オーカミイナリの名を口にすることも慎しみ怖れておりましたのです。なくなった夫人が庭にイナリのホコラをたてて朝夕の参詣を欠かさなかったのも、そのタタリを怖れてのせいでした」
「上京後もオーカミイナリの強談判はひきつづいていましたか」
「私が当家へ参って後は、そのような形跡はありません。噂にききましたところでは、上京直前、当家に伝わる家宝の数々をイナリに納めて一応話がついたということでした」
「オーカミイナリの神主が上京するようなことはありませんか」
「東京の人にはあんまり縁のないイナリで、土の中の金《キン》をまもるイナリと信ぜられ、山々に金《キン》を探す金掘りの人々や、山の人々に信仰されております。したがって神主は山にこもって荒行し、彼が山中を走る時は狼のように物凄い速さであると言われております」
「朱塗りの独特の神の矢はどういう時に用いるのでしょう」
「私どもその土地の者はオーカミイナリを信仰致さず、一風変った邪教の類いと昔から考えられておりますので、くわしいことは存じませんが、年々のお祭りに三十本とかの神の矢を暗闇の中で四方の山々に射放すそうで、そのために、神主は十日がかりで一本ずつの神の矢をつくるのが日課であると云われております」
「猿田の面もイナリと関係がありますか」
「私どもは猿田の面と申しますが、オーカミイナリではその祖先の大倭大根大神と申す神の顔がこういう天狗の顔であるそうで、その子孫の今の神主も、猿田の面と全く同じように鼻が高くて目がまるくて、どす黒い渋紙のような顔色をしているそうです。もっとも、あの近辺の村人も神主の顔を直々見た者は少いのです。イナリのホコラは児玉郡と秩父郡の境界の遠く里をはなれた山中に在るのですから、村との交渉は少いのです。所在の山地は児玉郡に属していますが、江戸幕府の時にも誰の知行所だか不明という人々の立入らぬところで、村の入会地《いりあいち》にもなっておらず、山男の秘密の通路だなぞとも云われておるようなところです」
「店のあたりに怪しい者がうろついているのを見かけたことはありませんか」
「特に心当りはございません」
 離れ座敷、そこは真弓が食事にも寝所にも用いる奥の部屋で、彼の殺された部屋であるが、その北側の窓の下の木陰に誰かが脱糞していた。そんなところに脱糞するのは犯人のほかには考えられない。ところが、お尻を拭いた紙がない。指で拭いて傍の木の幹にこすりつけた跡があった。
 しかし、室内には足跡がなく、土のこぼれたのも見当らなかった。また、盗まれた物もなく、室内を物色した形跡もない。
「当家の使用人で埼玉の者は誰々でしょうか」
「私のほかには同郷の者はおりません」
「一同の身許はハッキリ致しておりますか」
「いずれも親元はハッキリ致しております」
「当家の財産状態はいかがでしょうか」
「大旦那の買いつけが事々にしくじりまして、かなり手痛い損失がつづいておりまして一応苦しくなっておりますが、まだまだ屋台骨はシッカリしておると見ております」
「このお店はいつごろの創業ですか」
「上京まもなくここが売りに出たのを買って開業しましたのが、たしか明治六年、開店の時から居りますのは私だけで、他の者はこの四五年間に新しく雇入れた者ばかりです」
「時々郷里から訪れる人がありますか」
「出身の地とは絶縁の状態で、取引の織元も隣りの秩父郡か、隣県の群馬栃木の人ばかりです」
「こちらから向うへ商用に往復致しておるでしょう」
「あの方面は私のほかに二人の係りの手代がおりまして、常に往復致しております」
「あなたは当日の夜は当家に宿泊されたでしょうか」
「いいえ。夜業を終えて九時ごろ帰宅いたしまして、そのまま寝てしまいました」
 新十郎は庭のイナリの前に立った。小さなありふれたオイナリ様である。扉をあけてみた。中はカラであった。しかし、中をのぞいた新十郎の目が光った。
「オヤ。これは何だろう? 昔からこうなっていたのだろうか? ここへ板を張りつける必要はなさそうだが」
 正面に五寸四方ぐらいの板が張られていた。特別な事情がなければ意外の念も起さずに見逃すのが自然であろうが、特に意味を考えてみると、理解に苦しむ板である。
 幸いイナリを作った大工が今も出入りしていることが分ったから、訊いてみると、
「左様です。それは初めからそのように作ったのです。奥様がこの板を持参致されて、これを正面中央へ打ちつけて下さい、と仰有《おっしゃ》いましたのでね」
 新十郎はイナリのホコラを解体させて、打ちつけた板をはがした。板の裏面に次のような二行の字が書かれていた。
「大加美稲荷大明神
 今居定助明神」
 今居定助とは、蛭川真弓と同様に神の矢で殺された先代の番頭である。
「殺された番頭と殺した神様がこのホコラに並んで祀られるのに一応フシギはないかも知れないが、板を裏がえしに張りつけておいたのはどういうワケでしょうね。とにかく現地へ赴いてオーカミイナリの本家について調べてみなければ全然見当がつきかねますよ」
 新十郎一行はその翌日旅にでた。

          ★

 今は賀
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