、見ておれ」
 父の方がダダッ子だった。彼は火鉢を抱きあげて山とつまれた荷箱に投げつけたことが三度もあった。
 久雄は全く慌てなかった。店員たちが急いで散った火の始末をしようとするのに向って、
「急ぐことはない。一ツずつゆっくり拾え。ついでにその火に一服つけてからやるがよい。目に見えているそんな火で火事にはならぬ。屑のような大荷物は焦げたところで大事ない」
 すっかり血相の変った父はそのまま家をとびだして茶屋酒にひたり、何日も帰らぬ日がつづく。そして、何事もない平穏な日も父の茶屋酒は激しくなる一方であった。その勘定も莫大であった。
 父の時々の逆上的な大買いつけに、心ならずも動くのは川根の務めであった。それは彼の責任ではなかったから、久雄は彼を怒らなかったが、お茶屋で酔い痴れている父は家事向きのレンラクにくる川根を足蹴にして、階段から突き落したこともあった。そのために川根は手首を折り、全治に長い日数を要した。また、火箸でミケンを割られて、その傷跡がミミズのように残っていた。
 父が故郷をひきはらい上京して店をひらくとき、土地の小さな織物屋の手代をしていた川根が見こまれて連れられてきたのである。そのときは、ゆくゆくはノレンをわけてやる、という話であったが、父は茶屋酒に浸り、店は久雄とその子飼いの若い者たちが切り廻しているから、川根は無用の存在で、ノレンをわけてもらえる見込みは全くなかった。もう四十に手のとどく川根は、店の近所の小さな借家で妻子五名と暮していたが、前途を思うと胸がつかえるばかりで、家へ戻っても殆ど妻子と口もきかなかった。
 それは春がめぐりぎて桜の花がほころびそめた明るい朝のことであった。由利子はオイナリ様へ参拝した。
 いつもは閉じられているオイナリ様の扉がひらいていた。
「私のほかに誰か来た人があるのかしら。このウチにはイタズラする子供もいないのに」
 彼女はそう思いながら扉を閉じようとした。と、内部に、白い物があった。
「オヤ。なんでしょう?」
 彼女も昔、中を改めたことがあった。そこには御神体もなく、何物も一切なかった筈である。
 中の物をとりだした。字が書いてある。
「蛭川真弓 享年四十八歳」
 位牌ではないか。蛭川真弓とは父の名だ。享年四十八。父の現在の年齢だった。彼女は一本の棒となって息をのんだ。
 誰かのイタズラだろうか? それとも、父がヤク払いのつもりで、自分で入れたのだろうか?
 だが、なんの気もなく、その裏を返して見たときに、彼女は血を浴びたように、すくんだ。
「大加美稲荷大明神」
 大加美――狼だ。シサイに見ると、字の一劃ごとに蛇である。狼イナリのお札に相違ない。
 彼女はお札をそッと元へおさめた。父はお茶屋に流連《いつづけ》でまだ戻ってこないし、兄は商用で朝早く外出していた。彼女は川根の姿を見つけだしたので、そッとイナリの前へ案内した。そして、中の物をとりだして見せた。
 川根はシサイに表裏を改めつつ由利子の話をきいていたが、
「これはホンモノの大加美イナリのお守りです。お嬢さんはケダモノの狼と思いこんでいらッしゃいましたが、実はこう書くのが本当なんです。ここの旦那や私の生れたのが賀美《カミ》郡賀美村。賀美というのは神様の神らしいそうです。もっとも隣りが、那珂郡ですから上《カミ》と中《ナカ》だと云う人もありますが、あの近所は方々に神山だの石神などと神の字の在所があるところでね。この大加美イナリは神主の奴が自分で大神《オーカミ》の子孫と称していやがるのですよ。また、怖しいことになりましたね」
 川根は顔を暗く伏せて口をつぐんだ。由利子は思わず耳をそばだてて、
「また? また、って、なんのこと? 前にも、こんなことが有ったの?」
「申し上げて良いか、どうか。イヤ、イヤ。一度お嬢さんにオーカミイナリの名を教えてあげただけで大そうなケンツクを食ったから、これ以上は何も申し上げるわけにいきませんや。とにかく、オーカミイナリは本当にタタリをする怖しい神様だなア」
「タタリ?」
 川根はそれに答えなかった。そして、そッとお札を返したが、いかにも目の前に近づいたタタリを怖れているような様子だった。
 由利子も処置に窮して、仕方なく再び元の位置におさめたが、
「そうだっけ。この扉が両側に一パイに開いていたのよ。三四日お詣りしないけど、この前の時は扉は閉じてた筈だし、それに昨日のお午《ひる》ごろまで激しい吹き降りだったわね。扉が開いてればお札に雨がかかったと思うけど、そんな跡はないわ。すると、ゆうべ誰かが入れたらしいわね」
 川根は答えなかった。タタリという神々の業に人智の推量は余計物だと云わんばかりの思いつめた様子であった。
 久雄は夕食のとき、お給仕する由利子からその話をきいた。
「バカバカしい。見せてご
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