って後は、そのような形跡はありません。噂にききましたところでは、上京直前、当家に伝わる家宝の数々をイナリに納めて一応話がついたということでした」
「オーカミイナリの神主が上京するようなことはありませんか」
「東京の人にはあんまり縁のないイナリで、土の中の金《キン》をまもるイナリと信ぜられ、山々に金《キン》を探す金掘りの人々や、山の人々に信仰されております。したがって神主は山にこもって荒行し、彼が山中を走る時は狼のように物凄い速さであると言われております」
「朱塗りの独特の神の矢はどういう時に用いるのでしょう」
「私どもその土地の者はオーカミイナリを信仰致さず、一風変った邪教の類いと昔から考えられておりますので、くわしいことは存じませんが、年々のお祭りに三十本とかの神の矢を暗闇の中で四方の山々に射放すそうで、そのために、神主は十日がかりで一本ずつの神の矢をつくるのが日課であると云われております」
「猿田の面もイナリと関係がありますか」
「私どもは猿田の面と申しますが、オーカミイナリではその祖先の大倭大根大神と申す神の顔がこういう天狗の顔であるそうで、その子孫の今の神主も、猿田の面と全く同じように鼻が高くて目がまるくて、どす黒い渋紙のような顔色をしているそうです。もっとも、あの近辺の村人も神主の顔を直々見た者は少いのです。イナリのホコラは児玉郡と秩父郡の境界の遠く里をはなれた山中に在るのですから、村との交渉は少いのです。所在の山地は児玉郡に属していますが、江戸幕府の時にも誰の知行所だか不明という人々の立入らぬところで、村の入会地《いりあいち》にもなっておらず、山男の秘密の通路だなぞとも云われておるようなところです」
「店のあたりに怪しい者がうろついているのを見かけたことはありませんか」
「特に心当りはございません」
離れ座敷、そこは真弓が食事にも寝所にも用いる奥の部屋で、彼の殺された部屋であるが、その北側の窓の下の木陰に誰かが脱糞していた。そんなところに脱糞するのは犯人のほかには考えられない。ところが、お尻を拭いた紙がない。指で拭いて傍の木の幹にこすりつけた跡があった。
しかし、室内には足跡がなく、土のこぼれたのも見当らなかった。また、盗まれた物もなく、室内を物色した形跡もない。
「当家の使用人で埼玉の者は誰々でしょうか」
「私のほかには同郷の者はおりません」
「一
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