座敷がかかったか。この節は流しでなくちゃア、ダメらしいや。師匠の看板なんざア、てんで物を云やアしねえや。ベラボーめ。腕自慢のアンマが流して歩けるかい。いよいよ東京もつまりやがったな」
「お名ざしで口がかかりゃア結構だ」
「ヘッヘ。チョイと御身分が違います」
弁内は道具一式を包んだ物をぶらさげて、暗闇の階段を器用に降りて行く。出がけにハバカリへはいる。まだハバカリにいるうちに、又もや表の戸を叩く音。
「頼もう。アンマのウチは暗いな」
「目の玉があると思って威張りやがるな。暗いが、どうした。オカネの顔を見せてやろうか」
「化け物婆アめ。相変らず冷酒のんで吠えてるな。妙庵先生のウチの者だが、アンマを一匹さしむけてくれ」
「自分で脈がとれねえかよ、ヤブ医者野郎め」
稲吉は流しにでているから、二階に売れ残っているのは角平ひとり。さッそく身支度して階下へ降りる。出会い頭に便所からでてきたのは弁内。
待っていてくれた妙庵の代診仙友とともに三人一しょに外へでる。十時半ごろだった。四ツ角で、右と左に弁内と別れると、仙友は角平にささやいた。
「例の通り、よろしく、たのむぜ。先生のイビキ声がきこえるとオレはぬけだすから、患者が戸を叩いたら、今日は休みでござんすと断ってくれ。先生にわからねえように、な」
仙友はオヒネリをだして角平のフトコロに押しこんだ。
妙庵は持病の神経痛がおさまると、大酒のんでアンマをとってねむる。ふだん睡眠が足りないから、こういう時には正体もなくグウグウと屋根がゆらぐようなイビキをたててねこんでしまう。代診の仙友のほかには下男も女中もいない。ふだんコキ使われている仙友にとって、ゆっくり羽をのばしてくる好機であるから、妙庵のイビキ声とともに、後をアンマにまかせて一パイ飲みにでるのである。
角平が到着すると、妙庵はサカズキをおさめて、ネマキに着替えて、横たわり、
「陽気がいいせいか、今夜は特別酒がしみるな。あんまり強くもんじゃアいけないぜ。軽く全身のシコリをほぐすように、ゆっくりと静かに、さするとみせてもむようなアンバイ式にもみほぐすんだよ。オレが自然に寝がえりを打たないのに、オレのカラダをヒックリ返しちゃアいけないよ。手のとどかねえ下の方にも手をまわしてもんでくれるのがアンマの親切というものだ」
口うるさい妙庵、そうでもない、こうでもない、強すぎる、弱すぎると一々文句をつけているうちに、ゴオンゴオンと大イビキをかきはじめる。
妙庵の夜食をさげて後始末を終った仙友、イビキ声にほくそ笑み、見える筈のないメクラの角平に目顔で別れを告げて、イソイソと立ち去った。
彼の行きつけの一パイ飲み屋はオデン小料理の小さな縄ノレンの家である。その店でも大切にされるお客ではない。
妙庵があんまりはやらないヤブ医者だから、その代診の仙友は、実は下男代りのようなもの。給料なんぞもイクラももらッちゃいないから、妙庵がアンマをとって眠る晩に、稀れに抜けだして一パイのむのが手一パイというフトコロ具合であった。それでも当の本人は女中のオタキに惚れて、せッせと通っているツモリなのであった。
ところがその晩はオタキの情夫か何か分らないが、若い色男のお客のところへピッタリくッついたきり、オタキは仙友の方なんぞは振りむきもしない。
四本五本とヤケ酒をひッかけて、そのたびごとに、
「オイ。オ代りだ!」
大きな声で怒鳴っても、てんで相手にしない。
「チョッ。畜生め!」
しかし、モウ、それ以上は軍資金がつゞかないから、
「覚えてやがれ。テメエだけが女じゃアねえや。アバヨ」
と、外へでる。にわかに酔いがまわってきた。そして、それからどうしたかハッキリした覚えがないが、どうやら方々うろつきまわったようである。ころんだり、ぶつかったりしたようだ。
けれども家へ戻ると、さすがにいくらか正気が戻ってくるのは、よっぽど妙庵先生が怖いのだろう。とは云え、酔っ払いの荒々しい動作が全然おさまりはしないから、
「シッ!」
角平にたしなめられて、
「ヤ。角平か。すまねえ、すまねえ、どうも、長時間、相すみませんな」
柄になく、あやまって、匆々《そうそう》に寝床にもぐりこんだ。彼が一パイのんで戻ってくるまで、患家の使いを撃退役にアンマをもみつづけてもらうのがいつもの約束であった。
仙友が戻ってきたから、角平はさっそくアンマをきりあげて、立ち上る。外へでたが、まッすぐ家へ戻らずに、反対側の賑やかな通りへでて、仙友の行きつけの一パイ飲み屋のノレンをくぐった。
「一本つけて下さいな」
「オヤ、めずらしいね。たまには顔を見せなよ」
「ヘッヘ。不景気で、それどころじゃないよ。今夜はようやく二人目さ。おまけに一人は三時間ももませやがる。仙友の奴め、ずッとここに飲んでたんですか」
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