ろには全然手をつけずに、ね」
彼も軽く呟いた。
★
一同は夜分になるのを待って再びアンマ宿へ行ったが、家族たちはまだ戻ってこない。ちょうど弁内が仕事にでようとするところだった。
「大そう精がでるね」
「ヘッヘ。腕が物を云いまさア。お名指しのお座敷でござい、とくらア」
「石田屋かい」
「アレ。旦那も大そうカンがいいね。もっとも、ほかにお名ざしの口てえのはないからね。人殺しがあったてえから、話をききたい人情もあらア。物見高いものさ。昨日今日はウチの前が人ダカリだってネ。あの旦那は火事の晩、ちょうど私があの人の肩をもんでる最中だったが、火事はウチの近所だてえと、メクラの私の代りに火事見舞いに行ってくれたよ。これも大そうなヤジウマさ」
「手伝いに来てくれたのかえ」
「まさか、それほどでもないでしょう」
すると、稲吉が頓狂な声をあげた。
「そう云えば、その人は、たしかに、来たぜ。なア。角平あにい。石田屋の者だが、メクラばかりで手が足りなけりゃア、手伝ってやるが、どうだ、と云って、表の戸をあけて声をかけた人があったよ。そのとき、下火になった、下火になった、てえ人々の叫び声がどッとあがったから、下火になったらしいじゃありませんか、と訊くと、しばらくカマチへ腰かけて話しこんで戻って行ったね」
弁「オレにはそんな話はしなかったが、それじもア本当に寄ってくれたんだなア」
新「あの晩はメクラばかりで困ったろう」
稲「いえ、困ったのは婆アばかりで。あの婆アのドッタンバッタン慌てるッたら有りゃしねえな。たしかにタタミもあげていましたぜ。そのときウチに居たのは婆アのほかには、私と角平あにいだが、婆アの奴め、庭へ穴を掘れと云やアがる。表は一面に真ッ赤じゃないか。メクラにも火の色ぐらいは分らア。おまけに火の粉は降ってきやがる。穴なんぞ掘ってられやしない。とても庭に立ってられやしないよ。コチトラは焼けて困る物がないから、落ちついたものよ。イザといえば逃げられるように、出口に近いところで、外の様子をうかがっていたね」
新「婆さんがタタミをあげているとき、石田屋の人が居合わしたかえ」
稲「さア。どうかねえ。下火になったころは、婆アもどうやら落ちついたようだ」
新「その人は部屋の中へ上らなかったかね」
稲「上りやしません。私らがカマチの近いところに居たのだから、その人はカマチ
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