明治開化 安吾捕物
その十五 赤罠
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)遊山《ゆさん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)生地|名題《なだい》の

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ヒョロ/\と
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 年が改って一月の十三日。松飾りも取払われて、街には正月気分が見られなくなったが、ここ市川の田舎道を着かざった人々の群が三々五々つづいて通る。一見して東京も下町のそれと分る風俗。芸者風の粋な女姿も少からずまじっている。
 深川は木場の旦那の数ある中でも音にきこえた大旦那山キの市川別荘へ葬式に参列する人々であったが、それにしては喪服姿が目につかなくて、女姿は遊山《ゆさん》のようになまめかしいばかりである。それも道理。お葬式とは云え、死んだフリをして生きかえるという趣向のものだ。
 山キの当主、不破喜兵衛は当年六十一。一月十三日というこの日が誕生日で、還暦祝いを葬式でやろうというのである。
 厄払いの意味もあった。甚だ老後にめぐまれない人で、中年に夫人を失ったのが晩年の孤独のキザシであった。彼自身は生れつき頑健な体質で病気知らずと人の羨む体質だったが、死んだ夫人は病弱だったせいか、生れた三名の子供のうち、兄と姉はすでにこの世になく、一人残った清作も病身であった。骨が細くヒョロ/\と青白く育って、見るからに長命の相が欠けているから、
「早く嫁をもたせてタネをとらなくちゃア、山キの後が絶えてしまう。美人薄命というが、オレがキリョウ好みをしたのが思えば失敗のモトであろう。若い頃は分別が至らないから、目先の快楽に盲いて、老後も死後も考えないが、家を保つには丈夫で利口な嫁を選ばなければいけないものだ。その上キリョウが良ければ越したことはないが、それは二の次だ」
 不破喜兵衛はこう考えて、まだ清作が二十という若いときに、今の嫁をもたせた。そのときチヨは十六という若い嫁であった。
 幸いに玉之助、信作という二人の孫は母の健康をうけついで無病息災に育つから、喜兵衛も非常に安堵していた。と、去年の秋の季節に、大事な二人の孫がまちがえて毒茸を食し、一夜にそろって死んでしまった。
 豪放な喜兵衛旦那もさすがに一時は寝食を忘れるほどの悲歎にくれたのである。しかし冷静に考えれば希望がなくなったわけではない。長命の望みなしと二十で嫁をもたせた清作は案外にも長持ちして、すでに三十であるが、まだ何年かは持ちそうだ。現に二人の孫を失うと殆ど同時に、あたかもそれを取りかえすようにチヨは妊娠してくれた。死んだ孫の数を取りかえすのも儚い希望ではなかろう。
 そこで喜兵衛は心機一転、年が改ると共に自分の誕生日がくるから、ちょうど還暦に当るを幸い、厄払い、縁起直しに思いついたのが生きた葬式である。いっぺん死んで、生れ変ろうという彼らしい趣向であった。
 いったん心を持ち直せば一時のメソメソしたところはカゲすらも見せない喜兵衛。発心の起りはどうあろうと、葬式のダンドリが陽気で、荒っぽくて、賑やかで、勇ましいこと。準備は年の暮から、木やり音頭と共に着々すすんでいた。
 お隣りのシナでは病人の枕元の一番よく見えるところへ棺桶を飾って病床をなぐさめ、お前さんはこの立派な棺桶におさまるのだから心おきなく死になさいよ、と安心を与えてやる。さすがに大陸の風習はノンビリしているが、日本でこんなことをやると、オレの死ぬのを待っていやがるか。オノレ恨めしや。棺桶を蹴とばしてユーレイになってしまう。だから死ぬまでは何食わぬ顔、ただ生命を保つ工夫にこれ努める心底をヒレキしてユーレイ防止に全幅の努力を払わなければならない。
 そこで、さア死んだとなると、忙しいな。ここにはじめて、にわかに葬式の準備にかかる。けれども、何様の葬式でも一週間か十日のうちには終らなければならないものであるから、精一パイ準備しても、参会者の頭数やお供え物を差引くと、あとには白木のバラックと賃借りの幕が残るぐらいのものだ。
 喜兵衛の葬式は充分に時間をかけて本場の木やりで気合をかけながら着々と念を入れてやったのだから、棺桶だってシナの上物に負けないのが出来ているが、全般の準備に較べれば、それぐらいは物の数ではない。
 知人のもとに刷り物の死亡通知と葬式の案内状が発送されたが、そこには式の次第がちゃんと書いてある。それによると、喜兵衛が死んで生れかわるまでの順序は次のようになっている。
 まず坊さんの読経があって、禅師が喜兵衛の頭をまるめ法衣をきせてやる。そこで喜兵衛は法体となり生きながら自分で歩いてノコノコと棺桶におさまる。
 そこでトビのコマ五郎輩下の若い者が火消装束に身をそろえ、棺桶を担いで木やり勇ましく庭園内に葬列をねって、ダビ所に安置する。このダビ所はコマ五郎が輩下の大工を指図して年の暮から丹精こめて新築したもの。これに棺桶をおさめて火をかける。パッと火がもえあがったときにダビ所の扉を排して現れ出ずるは赤い頭巾にチャンチャンコ。生れかわった喜兵衛である。
 これより葬式変じて還暦の盛宴となる。メデタシ、メデタシ、というダンドリだった。
 こういう葬式だから、喪服の参列者が目につかないのは当然だが、その人々にまじって、ちょッと風俗の変った二人づれ。洋服のヒゲ紳士は花廼屋《はなのや》、珍しや紋服姿の虎之介。この二人がなんとなくシサイありげに同じ目的地へ向っているのである。花廼屋は野づらを吹く左右の風を嗅ぎとって、
「フム、近づくにしたがって、次第に匂うなア。神仏混合ハナの屋通人という通り、ハナが利くことではハナの長兵衛に劣らぬ生れつきだて。このハナが嗅ぎわけたところでは、もはや疑うところがない。今日は誰か殺される人があるぜ。一人かい? フム、フム。二人かい? フム、フム」
 いつもならば必ず反撃の一矢を報いる虎之介が、花廼屋の言葉も耳につかぬていに沈々と思い余った様子に見えるのは、甚しく同憂の至りであることを表している。にわかに煩悶の堰が切れたらしく、
「ウム。ひょッとすると、三人か。チヨ女のおナカの子を加えると四人……」
 物騒な計算をしている。が、これにはシサイがあったのである。

          ★

 田舎育ちの通人が都風の粋な情緒に特にあこがれを寄せるのは理のあるところで、花廼屋は大そうな為永春水ファン。深川木場は「梅ごよみ」の聖地、羽織芸者は花廼屋のマドンナのようなものだ。そこで折にふれてこの地に杖をひき、すすんで木場の旦那にも交りをもとめて、文事に趣味もある喜兵衛とはかねてなにがしの交誼をもっている。
 そこで彼は山キの内情とか、木場全体における山キの位置や立場などにも一応通じていた。特に山キの二人の孫が変死して以来は持って生れた根性がムクムクと鎌首をもたげて、多年の聖地に向って甚だ不粋な探偵眼をなんとなく働かせるに至っていたのである。
 それというのが、山キの二人の孫の変死は他殺に相違ないからであった。それもよほど計画的な他殺であろうと彼は睨んでいた。
 清作は病身で、家業に身を入れれば死期を早めるにすぎないようなものであるから、彼と妻子は本宅に住まずに、向島の寮に住んでいた。その近所には海舟の別邸もあり、そこには海舟の娘が住んでいたから、海舟もこのあたりの風土については心得もあるし関心も持っていたのである。三囲《みめぐり》サマ、牛の御前、白ヒゲ、百花園と昔から風雅な土地であるが、出水が玉にキズの土地でもあった。
 その日、清作はふとなにがしの用を思いついて、珍しく深川の本宅へ顔をだした。実に珍しいことであったが、これを虫の知らせと云うのか、このために、彼とチヨは死をまぬがれた。さもなければ、彼とチヨも二人の子供と運命を共にして親子四名全滅するところであったろう。
 彼の帰宅がやや遅れたので、いつものように四名一しょに晩の食卓をかこむことができなかった。子供たちの食慾は父の帰宅を待ちきれないから、チヨはせがまれるままに子供たちに食事を与えた。ちょうど京都の松茸が本宅から届いていたから、これを鯛チリの中へ入れた。父母に先立ってこれを食したために子供たちは落命したが、父母はイノチ拾いをしたのであった。
 この松茸の中に、松茸と全く同じ形の毒茸がまじっていたのである。
 この松茸は京都方面へ出張した若い番頭の二助が買ってきたものだ。喜兵衛は食道楽で、地方出張の番頭たちは必ず土地々々の季節の名物を買ってくるのが山キの家法のようなものだ。秋の季節の京都ならば松茸と、云わずと定まっているようなものであった。
 二助は背負えるだけの松茸を背負って帰ってきたようなものであった。喜兵衛はこれを近隣へ進物し、向島の寮へも届けさせた。
 ところが、ここに奇怪なのは、他家へ進物した中にも、本宅に残った中にも毒茸は存在しなくて、向島の寮へ届けた小量の中にだけ毒茸が混入していたのである。そこで、京都の松茸の売店も、それを買ってきた二助にも罪がなく、松茸の荷を解き、いくつかに分けて、向島へ届けるのはこれと定まってから、それが向島に届くまでの間に何者かが毒茸を入れたのだろうと考えられたが、それが手から手へ渡る途中には怪しい事実を確認することが全く不可能であった。
 山キは喜兵衛の先代が秋田の山奥から出てきて築いた屋台骨であるが、したがって先代以来、ここの番頭は主として秋田生れの者を使っていた。
 まず大番頭は、先代が秋田から連れてきた番頭の二代目で、重二郎と云う。元来、遠縁に当る家柄の者で、姓も同じ不破である。重二郎は当年三十七。これからが分別盛りで、手腕の揮いどころという大切なところであるが、彼は主家の娘トミ子を妻に与えられ、今までの浅からぬ主従関係はさらに血族の縁に深まり、末代まで主家の屋台骨を背負う重任を定められたのであった。
 これも一ツには彼の父が二心なき番頭として今日の主家の屋台骨を築くに尽した功績の大いさにもよるのであったが、また一ツには、トミ子が生来の病弱で、他家に入って主婦の重任を尽しがたいせいもあったのだ。
 トミ子は重二郎に嫁して、父や良人の心づくしの我ままな結婚生活に恵まれながらも、二児を遺して死んだ。
 この二児は主家の外孫に当る上に、主家の子供が病弱で次々と死ぬから、特に疎略にはできない。そこで重二郎は主家に対して忠実な番頭であるためには、自分の子供に対しても忠実な番頭的存在である必要があって、この二児をまもるために、再婚するわけにゆかない。主人の喜兵衛がその妻を失ってのち妻帯しないから、彼も同じようにしなければ義父に義理が立たないような遠慮も必要だったのである。
 重二郎の下に、一助(二十七)、二助(二十五)、三助(二十二)と順に符牒でよぶ定めになっている三名の小番頭がいる。その下に平吉、半助という小僧がいるが、いずれはこれも何助という小番頭に出世が約束されている。この五名もそろって秋田地方の出身であった。
 松茸に似た毒茸もいろいろあるが、山キの二名の孫のイノチを奪ったものは、特に松茸にそッくりで、タテにさける。これは秋田の山間の限られた地域に見かけることができるもので、山キの主従はその毒茸の発生地域の出身であった。これはその土地の方言で、ヅラダンゴだの、ヘップリコなどゝよばれている猛毒のものだ。
 本宅の者は材木の買いつけに生れ故郷との往復もヒンパンであるから、地方で育った小番頭や小僧は云うまでもなく、東京生れの喜兵衛も重二郎も生地|名題《なだい》の毒茸の知識はあった。台所の主権をあずかるオタネ婆さんも生国の毒茸を見あやまるようなことはない。
 ところが運わるく向島の寮には、この毒茸を見破る能力ある者が一人もいなかった。病身の清作は東京以外を知らないし、チヨも女中たちも生粋の東京人だ。関西とちがって関東の者は概ね松茸についてファミリエルな鑑賞にはなれていない。ホンモノと毒茸とを並べて見比べれば疑問の判定はつくのだが、ヘップリコだのヅラダンゴという概念を持たないから、寮の人たちは怪しまなかった
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