す。死体とともに、それを棺桶の中へ入れた人間も一しょに前から居たのです。そして皆さんが出たあとで死体を棺桶に入れたのです。皆さんもこれを疑うわけに行きますまい。ごらんの通り、カラの筈の棺桶の中には屍体に代る人形がありましたし、生きた一人の人間も、こうしてチャンと中に実在していたではありませんか」
新十郎は笑ってヤマ甚を見て、
「本日の私たちの実験は扉をあけて、人形と生きた人間を中から出してきました。ところが、あの日は、扉に錠がおろされたまま衆人環視のうちに燃え落ちたのですから、屍体は取りだすヒマがなく当然中で焼けました。しかし、屍体は一ツでした。すると、生きた人間は、どこへ消えたのでしょうか? 開かれた扉のほかには外へ出る通路が確実にないのです。ヤマ甚さん。お分りでしょう。お年寄の坊さんが助けに駈け登ったのは、喜兵衛さんのためではなくて、第二の人物、即ち、棺桶が安置される前から、たぶん前夜からすでに室内に屍体とともに居た人、その人を助けだすためでした。老師とコマ五郎さんはわざともつれるようにして扉にぶつかって、扉を倒しました。そして第二の人物は、モウモウたる煙と火消の群にまぎれて無事退去した……」
新十郎は一息ついて微笑して、
「全然無事でもないようでしたがね。なんしろ、その人物は喜兵衛さんではないから、自分が扉をあけて出てくるわけに行かない。相当に火が廻ってから、かねての打ち合わせ通り誰かが喜兵衛さんを救いだすフリをして扉を破ってくれるまで待たなければならない。相当に火傷《やけど》の危険があるのです。もっともコマ五郎さんはそれを承知していたからなるべく煙のはいらぬように、蟻のいや、煙の出入のスキをふせぐために念を入れて仕上げましたし、中の人物も火消装束に身をかためて危険に備えていた。そして床上にうつぶして救いを待っていたが、さすがの火消装束でも完全には露出を防ぎきれないので、全身に四ヶ所だけ火傷をまぬかれませんでした。もうその火傷も治ったようですがね。すると、中にいた第二の人物が誰かということは、もはや見分ける証拠がありますまい。なぜなら、この人間は誰か? 皆さんはそれを知りたがるようなヤボな人ではないでしょうから。また、どこにも犯罪はなかったからです。喜兵衛さんがチャンと室外へでたことは皆さんが知っています。しかし、あなた方以外の人が目で見たことは、喜兵衛さんは室内から出られなかった、そして死んだということです。そして六十人のあなた方よりも八百人の多くの目が正しいにきまっています。つまり、喜兵衛さんは出られなくて死にました。しかし六十人の皆さんだけが、事実に楯ついて、喜兵衛さんは生きていると信じたって、差支えはないでしょう。要するに、それだけのことですよ。さて、最後に」
と新十郎は声を改め、
「その室内には前から一ツの屍体と一人の人間が実在していました。それにも拘らず、皆さんには全く見えなかった。それは、なぜでしょうか? 私が説明する代りに、本人にやって見せてもらいましょう。さア、どうぞ。名なしの誰かさん」
こうよびかけられて、無名氏はふりむいた。そして魔人の如くにシッカリと歩いた。そのふるさとへ戻るように。
彼は一枚ずつ扉を押しあけた。たったそれだけのことである。内部の全てが見えた。云うまでもなく中央の棺桶も。しかしもはや人の姿は見えなかった。
「ごらんの通り」
と新十郎は指して、
「彼の人は隠れるために飛び上ることも走ることも一切の特殊な動作が必要ではなかったのです。中へギイーッと扉を押しあけてしまえばよろしいのです。すでに室内の空間には彼の人の姿は全く実在いたしません。ただ、そのとき室内はちょッとだけ小さくなっていました。つまり押し開けられた扉を壁の代りに、左右の隅に独立してしまった二ツの三角形の分量だけ。そして二ツの小さな三角形はもはや棺桶を安置した部屋の一部ではなかったのです。すくなくともこのダビ所の場合に於てはそうでした。扉を左右に押しあければ誰しも部屋の全部が開放されたと思います。そして、押し開けられた扉によって区切られた左右二隅の小さな三角形の中の屍体と人間は、すでに隠れたのではなかった。つまりそこはすでにその部屋の一部ではなくなっていたのです。だから、すでにその部屋に存在した屍体も人もなく、隠れている屍体も人もなかったのです。あッけないほどカンタンで、そのために完全でした」
火消人足の中に大きな息をもらす者が二三あった。それにつれてヤマ甚も大息をホッともらして、
「フーム。そうでしたかい。実に、どうも、ありがとうございました。私を男と見こんでこの秘密をあかして下さった以上、ただもう山キが成仏するように、冥福を祈ることだけしか考えますまい。お前たちも、ただもう山キの冥福を祈ることに精を入れて余計なことを考えちゃアいけないぞ」
こうトビの者に言い渡し、
「しかし、殺された者がないのに犯人ができちゃア困るが、またコマ五郎の奴め、なんだって自分で助けに飛びこむフリをしなかったのかねえ。気のきかねえ野郎だ」
「自分でとびこむと、山キの旦那でない人を連れて出なくッちゃアなりませんから。火消の親分が人を救いにとびこんで手ブラで生きて戻るわけに行きません。まして、恩義ある旦那ですし、自分で火をかけた仕事ですもの、旦那は覚悟の自殺だから諦めろ諦めろと云って、ヨボヨボの老師に飛びこみ役を引き受けてもらう必要があったのです」
そうであったか、という深い感動が溜息となって諸方から起った。
「コマ五郎を助けるためには、この建物を用いて、もう一度実験をやるとよろしいでしょう。警察の人々をまねいて今度は本当に火をかけて実験をやるのです。コマ五郎は訊問に答えて、扉の錠は内へチョットひくだけでクギが外れて落ちるほど浅く仕掛けておいたものだと申しました。ところが二枚の扉は錠が外れないために蝶番いが外れて倒れました。たしかにツジツマが合いません。そのために殺意ありと疑われたのです。そこでコマ五郎を助けるには、浅く錠を仕掛けても錠が外れずに蝶番いの方が外れて倒れる場合もあるという実験をしてみせればよろしいでしょう。その仕掛けはそうメンドウではありますまい。蝶番いの方にちょッと策を施せばよろしいでしょう。手の職に覚えの皆さんにヌカリはありますまい。それから、これは蛇足ですが、かの室内の人物は、夜中に来て夜中に立ち去る習慣だそうで、彼の人物の退去まであすこに近づかないことに致した方がなんとなくよろしいようです」
そして新十郎は一同に別れを告げた。
帰りの道々、花廼屋は、
「間のわるい時は仕方がないものだねえ。ちょッとひくと外れるように浅く仕掛けた錠が外れずに、蝶番いの方が外れるとは」
「浅く仕掛ける筈があるもんですか」
と、新十郎はふきだした。
「まさかその揚足をとられて犯人になるとは思わずに口がすべったのでしょう。内から扉をひらいて出てくる人がいないのだから浅く錠を仕掛ける必要はなかったのです。むしろ事実はアベコベに非常に頑丈な錠をしかける必要があったのですよ。なぜなら前夜から人と屍体が隠されていたのですから。そこにまもるべき秘密があるために、錠の仕掛をアベコベにウッカリ口走ったのかも知れません」
すると虎之介が思わず嘆声をもらして、
「実に驚き入った人物だなア。木場の旦那とは、町人ながらも、こういうものかねえ。あの火焔をくぐって事を行うには、思慮分別だけで済みやしないねえ。血気だけでも、むずかしい。六十一の老人じゃア塚原卜伝ぐらいの鍛錬がいる仕事だね。私は喜兵衛という人物のあの気合には、ことごとく驚いたねえ。すさまじいさッきの姿が目にちらついて、三四日はうなされそうだね。棺桶の上に立っていたあの姿。発ッ止、発ッ止、打ちこむような勢いで我々の方へ歩み進んだあの姿。実にどうも驚き入った気合だねえ。ふりむいて元の場所へ戻って行った後姿にも寸分のスキもありやしない。あの歩みの若々しさ。実におそれ入った神業だねえ」
新十郎は目をまるくして、
「さッきの名なしの権兵衛さんが喜兵衛さんだと仰有るのですか」
「当り前じゃないか」
「なるほど私が牛なら、あなたはどうしても牛ではないです」
新十郎はベソをかきそうに呟いたが、やがて気をとり直して、
「喜兵衛さんは先刻私が演じたように、棺桶にねてダビ所へ担ぎこまれ、火消人足が棺をかこんで木やりを歌ってる最中に素早く変装し、火消人足と一しょにダビ所を出てしまったのです。さッきの人物は前夜のうちに重二郎を殺して屍体とともにダビ所の中にひそんでいたのですよ」
新十郎は懇願するように説明々つづけた。
「両手の指と、両足のクビにホータイをしていた人物を思い出して下さい。その人物は手のホータイは仕方がないが、足クビのホータイは見せたくなかった筈です。どうしてそれを見せてしまったのでしょう? 女中をよんでくるためにです。そして、モーロー車夫をつかまえたテンマツを女中に語らせるためです。それは足クビのホータイを隠すことよりも重大でした。なぜなら、モーロー車夫は彼だったからです。彼は車夫に化けて重二郎をのせ、どこかで殺して、ダビ所にひそんでいたのです。すべては予定の手筈でした。ヘップリコを用いて山キを乗ッとろうとした悪人を仆《たお》して妹夫婦をまもるために、彼は魔人の如くに力強く行動したのでした」
うなだれた虎之介を花廼屋が慰めた。
「牛に負ける虎もいるものだ。クヨクヨするなよ」
輩下一同の技をこらした仕掛と、新十郎のとりなしなどもあって、コマ五郎は無罪放免になったということである。また喜兵衛によく似た老人が秋田山中に隠棲してヘップリコを食うこともなく大正末期に至るまで長生きしたという話を私は風の便りにきいた。
底本:「坂口安吾全集 10」筑摩書房
1998(平成10)年11月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第六巻第四号」
1952(昭和27)年3月1日発行
初出:「小説新潮 第六巻第四号」
1952(昭和27)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2006年5月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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