調べなどして、明日は新十郎を訪問しようという前日、朝食のあとで新聞をよんでいた通太郎は、にわかに顔色を変え、思わず大声で克子をよんだ。
「はやく、来てみたまえ。なんとなくフシギなことが新聞にでているよ」
そして現れた克子にその記事を示した。それは他の読者にはやや意外なことに思われるだけで、それほど重大な意味があろうとは思われない記事であろう。だから大きく取扱われている記事ではないが、二人にとっては、たしかに見逃せない記事であった。
隅田川の三囲《みめぐり》様のあたりの杭にひっかかっていた大男の水死人があった。
ひきあげて調べてみると、多くのフシギなことが現れてきた。水死人ではなく、背後から拳銃で射殺されたものである。
ところが着ていた洋服をはいでみると、奇怪なことが現れてきた。死人の露出していた額や手は日本人のような皮膚であるのに、洋服や靴の下では肌の色が黒いのである。しかるに、この肌の黒色も人工的に施されたもので、石鹸をつけてよく洗えば落ちる性質のものであることが次第に判明した。顔や手の色が黒色でなかったのは、死後に水につかっているうちに染めた黒色が落ちたためによるらしかった。だが、肌の色が人工的に染めたものであるにしても、その為に彼が本当は日本人だということが本当にハッキリとはしない。なぜならその髪の毛が甚だしいチヂレ毛であるし、その洋服も日本の洋服店に見かけるものとは相違しているように思われる、という記事であった。
特に二人にとって見のがせないのは、この記事の終りに当って、「この死人の身許を知るに特別の便宜あり。左手に、小指クスリ指の二本なく、三本指の由なれば、いずれの異国人なりとも真偽を立つるは易しと云えり」
これを見ては、さすがの通太郎が顔の色を変えたのもムベなるかなと云えよう。通太郎はただちに意を決した如く、
「この記事を見ては明日を待ってはいられない。今日は出社の日だが、特別の用もないようだから、これから急いで結城新十郎さんを訪問して、話をきいていただき、その必要があれば直ちに三本指の死人を掘りだして鑑定していただかなければならない。出発を急ごうではないか」
二人はにわかに身支度をととのえると、馬車を急がせて神楽坂の新十郎邸へまっしぐらに走った。そして新十郎に対面して、二人が今までに見聞したことを一ツも漏らすことがないようにと注意深く語り終ったのであった。
★
この出来事の裏に犯罪がありとすれば由々しい大事であるから、新十郎は根掘り葉掘り問いただすことを忘れなかったが、いかんせん二人の観察は時日も浅く、特に陰謀者と目すべき側の動静については、ほとんど個人的なツナガリも観察の機会も持たないのだ。
「お話はよく分りましたが、私がただちに申上げることができるような結論はまだ何一ツありません。だが、とにかく、三本指の変死人がロッテナム夫人の扉ボーイの黒ン坊だった男かどうか、時日のすこしも早いうち、ただ今から確かめに急ぐと致しましょう」
ただちに馬車にのって警察を訪ね、仮埋葬の死人を見せてもらうと、黒白の相違もあって人相では一切判断できないが、身体の大きさは同じぐらいだし、着ている服はたしかにその黒人の着ていたものに相違ないと云う。
見たところ、死後に日数を経た死体ではないようだ。杭にかかっていたというが、その状況をよく訊き正してみると、射殺されて水中へ落ちた時に杭にかかったもので、流れてきて杭にかかったものではないようであった。
昨日の朝の発見であるが、その前夜から夜明けまでのうちに殺されたもののようだ。調査に当った警官が出て来ての直接の答えでは、
「左様ですなア。その辺には血痕も、特別の足跡もありませんし、上流と下流にわたって岸を調査した報告はそろって『現場の跡を発見せず』でありました。一昨夜から昨日までの潮は、満潮が午後十時ごろと午前十時ごろ、干潮が午前四時ごろと夜は五時ごろでした。一昨夜来の水量と潮では、満潮になると杭にかかった死体が外れて流れますが、それは満潮の前後各一時間半ぐらいではないかという、その方面の係の者からの報告がありました。すると、射殺されて落ちた場所で杭にかかったとすれば、一昨夜の満潮が十時ですから、約十一時半以後、発見が朝の八時で、その時はまだ次の満潮が死人を杭から外す時刻になっていません。つまり一昨夜の夜十一時半ごろから、翌朝八時までのうちに射殺されたことになります」
「被害者のポケットや、身につけたもので、特別の物はありませんか」
「何一ツ特別なものはありません」
変死体の発見された三囲様のあたりは淋しいところで、誰も銃声をきいたと申立てる者がないそうだ。
警察を辞去すると、新十郎は二人に向って、
「調査は迅速を要します。ロッテナム夫人はお話の様子ではすでに夜逃げ同然行方をくらましたということですが、外国人の来朝や帰国についてはその記録に当る機関があるだろうと思います。それらの調査を終った上で、数日後に結果を御報告いたしましょう」
と約束して立ち別れた。
新十郎は外務省を訪ねた。洋行帰りの彼であるから彼《か》の地でジッコンを重ねた役人もあって、新十郎の知りたい事を調べてもらうには便利であったが、ロッテナム夫人、ならびにその従者の来朝帰国については、それについては当然何かの消息が知りうる筈のところに、ただの一行も記録したものがなく、それについて報告をうけたことも、上司から調査を命じられたこともないという。変名の場合を考えて、似たような婦人を古い記録をはじめコクメイに探してもらったが、まったくそれらしい婦人に就て知ることができなかった。
そこへ彼の親しい友である宇井という外交官が外国の公館員と長い用談を終えて、ようやく姿を現したが、
「ナニ? ロッテナム夫人? そんなものを筋の通ったことしか知らないお役所で調べたって分るものか。海外に遊学して外国の事情にも通じた天下の名探偵ともあろうものが、イカサマ師の外国人の足跡を外務省へ調べにくるとは大笑いではないか。裏街道の手型はお役所からはでないが、ニセの手型でイカサマ師の外国人が表通りに堂々と営業できるのは日本だけのことではないぜ」
「しかし公爵夫人が手術をうけたり二百円の香水を買ったことが日毎の新聞紙を賑わすに至っても、かね」
「天下の名門婦人が競って店に集るに至れば、益々治外法権さ」
「次第に悪評が立って、イカサマの美人術であることが天下に喧伝された場合には? そして、被害者は天下の名門婦人だが」
宇井はニッコリ笑って、
「そろそろ退庁の時刻だ。それほどイカサマ美人術師のことが気がかりなら、多少の知識はもらしてもいいが、さて、八百膳で我慢するか。美人術師のことだから、天下の美人の侍る席がよろしかろうが」
と、二人は笑いつつ外へでて食卓をかこみながら、
「わずかに一ヶ月足らずでお人よしの名門婦人に手ひどい悪評をまねくようでは、全然美人術の素人にきまっていると思わないかね。云うまでもなくロッテナム夫人などというものは、それ以前にも、それ以後にも存在しない名にきまっているな。その名を追うたところでいかなる小さな消息をつかむことも不可能にきまっていよう。アラビヤなどとは使節を交していないから、彼女の責任を負うている外国公館も存在しないぜ」
「店を開く手続きは?」
「君に勘定をもたせるわけは、それだよ。わずかに一ヶ月足らずで貴婦人たちから揃ってヒジ鉄砲を食ったというのは、あんまり馬脚を現すのが早すぎるようだが、その反対に、開店と同時にすでに名流夫人の人気にことごとく投じていた。さすれば開店のアッセンをした者が日本の名流婦人の心を左右する力をそなえた誰かであることが分ろう。その誰かは、三人いる。それは公爵と大臣で、それ以下の身分の人ではないことだけ言っておこう。むろん、すでにお察しの如くにこの三貴人を動かした者が実際に君が知りたい人名であろうが、それはたぶん誰にも知られていないだろう。むろん僕にも分らない。しかし、外国関係のことが職業の我々仲間には、いまもって大きな謎が一ツ残っている。三貴人を動かして開店と同時に名流婦人が法外の値を物ともせずに飛びつくような効果的な後援を貴人直々してくれるには相当の運動資金が必要であろう。貴人の名を後援者につらねることは容易だが、真に効果的な実役を果すことに努めるのはこの人々の習慣的な後援法にはないことだ。それは莫大な運動資金を費したと想像しうるにも拘らず、ロッテナム夫人は一ヶ月足らずのうちに悪評の総攻撃にあって行方をくらました。もっとも、高価きわまる手術費と香水の値段だから、ロッテナム夫人のモウケは一ヶ月でも少なからぬ額であったと想像しうるが、三貴人を動かした人がこれによっていかに益するところがあったか、これが我々の大いなる謎なのさ。ある者はスパイだろうかと疑る。我々外交官は、まずそれを考えるのだ。しかし、これによって益するスパイ行為が有りうるだろうか。まず疑った者も、結局ない、という結論に至らざるを得ないのさ。するとそのほかに何が考えられるだろう? ここまでくるともはや外交官には分らない。あとは君の解く領分だが、それにも拘らず、表面に大看板をかかげ、たしかに何かの目的のために表向きの大役をつとめたのが奇々怪々な外国婦人であったという点で、我々外交官にとっては、今もって関心と謎を忘れることができない。実は内々こッちから名探偵に助け舟をもとめたいほど、なんとなく気がかりな事だったのさ。どうやら、こッちが勘定をもたなければならないような話になったがね」
宇井はさらにいかにもガッカリしたように、次のような呟きをつけ加えた。
「ねえ、君。開店と同時に日本中の名流婦人のアコガレがその一店に集中するということは、千万人の長屋のオカミさんを動かすよりも難事業かも知れないのだが、このフシギが実際に行われたにも拘らず、この大仕事を企てて実行した人物が誰だか分らない。こんなベラボウなことがあるかねえ。これが本当にスパイ事件なら、我々外交官に外務をまかせる日本の運命は危いものだが、しかし我々の不明のみでもない理由もあるのさ。敵の目的がスパイと分れば我々が蔭の人物をつきとめる目安もつくかも知れないが、ロッテナム夫人を使い、三貴人をうごかして、たった一ヶ月足らずでたちまち馬脚を現したといういろいろの事実の組み合せからは、我々外交官にはどうしても事を謀った人間の目的を知ることができないのだ。そしてそのために、真の陰謀の主を推定する根本的な手がかりを失っているせいだよ」
これが宇井のギリギリの本音でもあったであろう。外交官の領域では理解しがたいところへ問題の根がのびているらしい。
しかし、新十郎は非常に感謝して、
「実に甚だ有益なお話だったよ。君が探偵して突きとめた成功談をきいても役に立つことはないらしいが、君が探しあぐねてサジを投じた悲愴なテンマツを偽らずきかせてくれると、おのずから犯人の姿がアリアリと出ているように見えるよ。その犯人の姿が見えないのは、御自分の頭の中の少しずつ寸の足らない推理を総動員して、その渦の中でもみまくられている御当人だけらしいな。実に本日の君は私にとってこの上もない恩人だった。この店の勘定だけでウメアワセがつくとは、ありがたい」
新十郎がハシャイで、こんな皮肉なことを云うのは、実は皮肉ではなくて、本当に嬉しかった重大なことがあったのだろう。
新十郎は宇井に別れた足で、さっそく通太郎夫妻を訪問し、
「私はあなた方の御依頼の原因が、バクゼンたる想像から出発しているにすぎないように考え、あんまり乗り気ではなかったのですが、どうして、どうして。もう、あなた方がお前やめてくれと仰有っても、この謎を解かなければ私の気持がおさまりません。それを報告にきました」
★
ロッテナム美容院はどのようなものであったか、それを新十郎に語りうる克子は、たった一度シノブにつれられて行ったことがあるにすぎない。もっと深く内部の事情に通じているであ
前へ
次へ
全9ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング