うけるイワレは何事によるのであろうか。
 一人ずつ現れた時と、三人同時に現れたときに、他の人々には分らないが義兄にのみはその意味が分り、そして大きな衝撃を与えるイワレをもつ何かの変化が巧妙に施されていたに相違ない。
 しかし、そのような衝撃を加えるものとして、また他の人々には気附かれない変化の上に施されたものとして、どのような事実の存在を考えうるであろうか。
 三人の位置か? 順か? 服装か? 表情か? あるいは義兄の混乱が三人の女の姿を認めたためと見せかけて、実は三人の女のほかに、他の重大な誰かの姿を認めさせたのであろうか。
 通太郎はその疑問を克子に訊きただしたが、それに対して克子は答うべきものを殆ど持ち合せていなかった。彼女の注意は、ひたすら兄を案じる不安の故に、兄の姿の上にのみ主としてそそがれていたからであった。
 彼女はしかし思いだそうと努力してみたが、力がつきて、
「そればかり見ていた筈の兄上のお姿まで、アリアリと順序正しく思いだすことができないほどです。三名の婦人は姉上、キミ、カヨの順に現れて、またその順に一しょに並んで立っていたと思いますが、確かではありません。服装は、キミもカヨも常に客間へ接待にでるときの侍女の服装のままでした。その壁際には他に人の姿が近づいたことはなかったようです。三名の婦人の方は出入の時機をかねて承知のように、自分で時を見はからって厚いカーテンの陰から思い思いに往復していたように思われました。指図をしている者の姿も、打ち合せている様子も、認められませぬ。しかし、カーテンの裏に時機を見て指図していた誰かが居たのかも知れませんが、その者がカーテンの外側に姿を現したことはありませんでした」
「カーテンの陰に誰かが指図していたとすれば、その者は同時刻にカーテンの表の側に居ることはできない筈だが、質問役の晴高叔父上がそれでないのは確実。次に大伴家に深い関係ある人々で、広間に姿の見えた人、見えなかった人を思いだしてごらん」
 克子はこう訊かれたが、叔父のほかには親しい人の姿を法廷で見た覚えはなかった。なぜなら、大貴族や大博士やその従者のみが主要な座を占めており、それだけが甚しく威圧的に目にしむ全部に見えて、その陰にいる誰かについて気を配る余地はなかったからである。しかし、大伴家に縁故の人で、当日来邸していない人は一人もなかったようである。他の時刻や他の部屋では、須和康人も、久世喜善も、隆光も、小村医師も、三太夫の宮内もみんな顔をそろえていた。
 通太郎はあれこれ思いめぐらしたが、
「とにかく誰かが兄上を精神病院へカンキンするタクラミにもとづいて組みたてられた事であるにしても、兄上を救いだすには、兄上が狂者でないという証明をだす以外には手段がない。よろしいかね。この鑑定の場内へひきだされた兄上は、一人ずつ姿を示した婦人が姉上とキミとカヨであることを順に認めて、それが実は同一の人物であるという断定を示したことによって、満堂の人々にほぼ兄上は狂者であるという判断を与えたようだ。兄上が同時に現れた三名を見て気絶されるまでもなく、その時までの鑑定だけでも狂者としてカンキンされる運びになったであろう。ところが……」
 彼はわが妻をやさしく見つめて、
「あなたがその場で兄上のお姿を観察したところによれば、三名の婦人が同一の人間であるというお言葉以外には、この上もなく聡明な人のみが示しうる静かな落ちついた態度で終始せられたという。僕もあなたの観察を正しいものと信じるが、僕自身が兄上の病床をお見舞いした折の観察によっても、三名の婦人が同一人物であるという確信以外には異常を認めることができないように思っている。問題は、三名の婦人が同一人物だという幻想がどうして兄上の頭を占めるに至ったか。僕たちが何を措いても先ず解決しなければならない謎はこのことだね。少しでもこの謎をとく助けになりそうなものを、お互いにみんな思いだしてみようじゃないか」
 克子は思いだすことをみんな良人にうちあけた。病床の兄が突然通太郎にエルサレムの地名を知るかと訊いたとき、
「エジプトのナイルの流れが海にそそぎ、その砂が海底をわたって、海を距てて積みなしたところ、アラビヤの沙漠の辺に……」
 と妙な呪文のような前説明を加えたが、それはロッテナム美人術の広告の文章中のものであること、ロッテナム美人術とはいかなるものであるか、克子は自ら見聞したところを総て良人に説明した。
「兄上は心のよからぬ者は男も女も三位一体だとしきりに三の数にこだわっていらッしゃるようですが、私が妙にハッキリと覚えていることは、ロッテナム美人館の扉《ドア》ボーイの黒ん坊が扉の把手にかける左手の指が、三本指しかなかったことです。小指とクスリ指とがなくなっているのでした。気持のわるい手。私の目にいやらしい蛇のようにハッキリとしみついているのは、そこに謎をとく何かがあるという神様のお告げのようにも思われて……」
 と、こう云って、さすがに克子も顔をあからめたが、良人はそれをさえぎって、
「イヤ、イヤ。羞しがらずに、なんでも思いついていることを言い切らなければいけない。人様に云うと笑われそうな、神様だの先祖のお告げかも知れないと思うようなとりとめもない神秘的な暗示や思いつきなどに、案外にも正しいカンが作用しているかも知れないよ。その方がこの目でシカと見たことよりも時には正しい真相を見破っていることがある」
 こう云って、通太郎は妻をはげました。かくて二人はいろいろの疑問を提出して考え合ったが、宗久の幻想の由来はどうしても見当がつかない。そして二人は多くの疑問を残して寝についたが、その翌朝の目がさめたとき、克子の頭にフッと浮かんだことがあった。
「そうだッけ。ゆうべはあのナゼ? を思いだそうとしても分らなかったのに、それがこれほど単純な事実だったのは、フシギなほどだ。これに関聯したことはみんな思いだしていたのに、このことだけがどうして思いだせなかったのかしら」
 思いだしてみると、バカバカしいほど単純な事実であった。
 克子がゆうべどうしても思いだせなかったことと云うのは、彼女が一夜つきそっていた兄の枕頭をはなれて、別室に待つ人々に、異状なく過ぎた一夜の様子と、むしろ兄は安静を得て快方に向いつつありと判断しうる吉報などを報告にでかけた時のことである。
 その部屋にシノブの姿はなかったが、キミ子とカヨ子はいた、その二人を見た瞬間に克子はシノブの分身を見たと直覚した。何かの事実によってその直覚が起ったことを記憶していたが、いかなる事実によってであるか、それが昨夜はどうしても思いだすことができなかったのである。
 思いだしてみればバカバカしいことである。すぐその隣りに当ることまでは思いだしたり、こねまわしていたのであった。
 キミ子とカヨ子をシノブの分身と直覚したのは、二人ともシノブ夫人御愛用の高価無類のロッテナム夫人の香水「黒衣の母の涙」を身につけていたからだ。
 その何時間か前に、キミ子一人の姿を認めた時にも、この香水の香りに気づいて、甚しく意外な感にうたれていたのだ。この時の意外感は鮮明で、昨夜の克子はこの意外感のテンマツの方は思いだして良人に語っていたのである。そこまで思いだして語っていながら、キミ子と同様、カヨ子もこの香水を身につけているのを認めた時に「分身」を感じた方だけどうして思いだせなかったのだろう。そして克子は、分身の方を直覚したときには、すでに意外の感には打たれずに、シノブの分身という事のみを直覚していたのであった。
「そのときには、直覚的にシノブ夫人の分身としてねえ」
 通太郎は克子の早朝の報告を吟味したのちに、やや顔をかがやかせて、妻の功に敬意を払うような笑みをうかべ、
「あなたのカンは怖しいほど鋭く正しかったのだよ。あなたがキミ子一人から香水の香を認めた時には、ただ甚しく意外に感じただけだったが、それはキミ子一人だったからだ。二度目の時には、キミ子とともにカヨ子も同じ香水を身につけているのを認めた。そのときは意外の感にわずらわされずにシノブさんの分身とだけ直覚したが、なぜならその時には香水を身につける者が三つの数を構成していることを早く認めたからだね。あなたはその三の数の直覚の方を意識の底へとじこめておいて、分身の方だけ直覚した。この分身ということは、兄上をなやましている三つの謎が幻想上に具体的に表れている事実なのだ。あなたはその瞬間に三という数の謎の原則の方を飛躍して、兄上の幻想上の事実の方をわが物として直覚していたのだね」
 通太郎はこう説明したのちに、その顔を益々明るくかがやかせて、
「あなたはこの謎の基本となっている三の数の直覚を飛躍したが、それはあなたが基本的な三の数の問題を、すでに兄上同様に、疑るべからざる当然なものとして問題外にしている理由があってのせいと思われる。こう云えばとて、あなたが兄上同様に三の幻覚を起す因子があるというわけではない。あなたの心の中に、自分ではそれに気がつかないが、兄上が三の数に悩むのは当然だという解決を発見しているせいだ」
 こう云われて驚く克子の顔を、通太郎は嬉しくてたまらぬような笑みをこめて見つめた。そして、断言した。
「あなたはそれに気がつかないが、実はすでに解決のカギを発見して握っているのだよ。あなたはこの分身の直覚に限って思いだすことができなかったが、それはあなたにとってあんまり平凡で当然な事でありすぎる意味があってに相違ない。そして、この直覚が平凡で当然の故に却ってボケた自覚しかなかったと同じように、確信の強さによって却ってゆがめられている他の似たような直覚がないかと云えば、ロッテナム美人館の扉ボーイの指が三本だったという発見がある。あなたはその発見が三の謎をとく神のお告げと見たい気持をもっている。分身の直覚は当然すぎるために思いだせないほどであったが、三本指の方は思いだせないどころか神のお告げと見たいほど曰くありげに思われていつも心にかかっている。一見二ツはアベコベのようだけれども三の数の謎をとく神のお告げと見たいほど曰くありげに思われるということは、実は前者と同じように平凡で当然な真理であると確信したいこと、否、すでに確信していることの証明だ。あんまり当然で思いだせないのも、あんまり当然な真実を衝いているためにいつも気にかかっているのも、結局同じ根から出て一見アベコベをさしているにすぎない。あなたは三の謎をとく大切なカギを握っていながらその自覚を忘れていたから、その自覚を与えるために神のはかりたもうたカラクリが、分身の直覚を忘れるという出来事であったのかも知れぬ」
 そこで通太郎は生き生きと結論を叫んだ。
「さア、我々はこの困難な仕事に自信をもってとりかからなければならないぞ。ロッテナム美人館の黒ん坊の扉ボーイの指が三本であったという発見が、三の謎の秘密を解いているとは、いかなる意味によってであるか。黒ん坊の三本指がいかなる理由や力によって兄上の幻想を支配するに至ったか。この方程式をとくのは困難な仕事のようだが、謎のカギがこの方程式の中に必ず実在していることはすでに確信できるだろう。あなたのマゴコロと、その心の位置の正しさによって、あなたの直観が神のように秘密の真相に迫っていることを僕は信頼できるのだ」
 そこで通太郎は一室に閉じこもったり、克子とともに論じあったりして、一途にこの不可解な三本指の方程式の解明にかかりきったが、いかにして黒ん坊の三本指が宗久の幻想を支配するに至るかは全く雲をつかむのと同じことでしかなかった。
「そうだ。僕が自分の手でいくらいじってみても答をひきだすことはできまい。きくところによれば、結城新十郎という人は紳士探偵と評判のように、名利にうとく、ただ正義を愛するために犯罪を解く人であるという。若年ながら古今東西の学に通じ、推理の天才であるというから、この人に判断をたのむことにしよう。あなたも同道して、見聞の総てを直接物語って判断を仰ぐことにしよう」
 こう約束して新十郎の住所を
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