な事実もなかったのです。偶然やとわれた黒ン坊役の男が三本指だったのですが、黒ン坊役がすんだのち、秘密をまもるために殺されたのでしょう。さて、二人の侍女はなぜシノブ夫人の香料をつけていたか。その香料によってシノブ夫人の分身であると信ぜしめるため。たしかにそれも一ツの理由でしたでしょう。しかし、なぜお兄上が三人の異る女を同一人と信ずるに至ったか。かかるフシギな幻想を確信せしめるに至った力は、単に香水の如きものから生れる筈はありません。実にメンミツに構成された驚くべき仕掛けがありました。実に驚くべき複雑な仕掛けですが、その仕掛けは地球を半周して材料を揃えたほどの大仕掛けでした。まず、ロッテナム美人術というものが、実にただお兄上を狂人に仕立てる目的のために遥々《はるばる》日本へよばれてきたものでした」
 聴き手の顔が狐につままれたように無表情になったが、新十郎自身の胸の思いは、捕縛しがたい犯人や悪計を単に見破ったということが無に劣る侘びしさでたまらなかった。
「ロッテナム美人術は開店と同時に日本の貴婦人の関心を最大限に集めることができたほど、恐らく多額な資金を物ともせぬ万全な宣伝と用意のもとに
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