すがに開店している。西洋の酒や食べ物を商う店らしい。赤いワシ鼻のたれた西洋人の男が店の掃除をしている。
一助が来意をつげると、西洋人はジロジロと上下に彼を眺めていたが、チヂレた髪の毛を見ると納得したらしく、彼を店の裏へつれて行った。裏口をはいって廊下をまがり扉をひらくと、階段が現れた。そこを登ると、屋根から光がもれるほかには窓のない暗い小部屋があった。
ワシ鼻の西洋人は一助をそこへ待たせて扉の向う側へ姿を消した。やがて現れたのは、一助がまだ見たことのないフシギな外国人であった。ところが、このフシギな外国人は日本語をいくらか知っていた。無言でここまで案内した男とちがって、いきなり聞き覚えのある言葉で話しかけられたので、一助は面くらって、すくんだほどであった。男は一助をイスにかけさせて、
「アナタ、ステキデス」
満足そうにうなずいてこう云うと、ポケットから日本の札タバをつかみだして、一枚の十円札をテーブルの上へのせ一助の方へ押しだした。
それから一ヶ月半すぎた。
お加久は一助が居なくなって五日目に、一助から手紙をもらった。達筆な代筆で一ヶ月後に帰るとあり、十円同封してあった。ところが一月すぎても一助は帰らない。お腹の子はそろそろ生れそうになるし、お加久は心配でたまらなくなって、長屋の人々に相談し、警察へ届けでた。
そこで警察からTエンドK商会の本牧別館へ問い合せると、そのような日本人に心当りはないし、第一ここには西洋人が住んでるだけで、日本人が泊っていたこともなく、壮士芝居にも心当りがない。また、そのようなハリガミを出した覚えもない。という返事であった。まことに、そうであろう。西洋人の経営する食料品店TエンドK商会が日本の壮士芝居の俳優を募集する筈はない。そのハリガミが事実としても誰かのイタズラであることは明かなようだ。
そして、そのようなハリガミをたしかに見たという人もあったが、また、そのハリガミを見て募集に応じたチヂレ毛の男もあって、
「そんなハリガミをした覚えがない」
とTエンドK商会の西洋人に断られてスゴスゴ帰ったという証人も現れた。そして一助の失踪はウヤムヤになってしまったのである。
★
克子は結婚して十七日目に、兄の大伴宗久が病に倒れたという報せをうけた。予感していたことが、やっぱり、と、克子は胸を痛め、良人《おっと》宇佐美通太郎と共に馬車を急がせて、広大な大伴邸へのりつけたときには、叔父の大伴晴高が小村医師と共に兄の隣室にションボリしていただけであった。
「お兄様の御容体は?」
克子がせきこんで尋ねるのを、晴高は手で制して、
「静かに。静かに」
なすところを失うほど困惑しきっている様子であった。
「そんなにお悪いのですか」
「生命の危険はとにかくとして、カンがたかぶっているのでなア」
「お姉様がつきそってらッしゃるのですか」
「イヤ、イヤ。誰もつきそっておらぬのじゃ。つきそうと、カンがたかぶる。ただ、克子に会いたいと云われるので、そなただけが、あるいはと思うて。ま、かいつまんで御容体をお話し致すから、おかけなさい」
克子を椅子にかけさせて、叔父は小村医師の顔を見ては助言をもとめながら、だいたいの経過を語ってきかせた。
宗久が発作を起して倒れたのは、克子が結婚して六日目にも、一度あった。そのとき宗久はウワゴトの中で、
「そこにいるのは、誰だ!」
時々あらぬ方を見て、そう叫びだしたが、そこには誰も居らず、常に何か夢に脅やかされているようであった。
二日ほどで発作は落着いた。その後、シノブ夫人が附ききりで、書斎と居間と寝室以外に出ることがなかった。
しかるに、昨夕以来にわかに発作が起り、前回とちがって、今回は狂暴であった。彼は日本刀を握り、シノブ夫人に心中を追って、逃げるを追いかけ、とめに入る侍女や使用人の男たちをも一様に斬り殺しかねなかった。
シノブ夫人の父、須和康人、また大伴家歴代の家老の家柄で今もって大伴家の相談役についている久世喜善、及び叔父晴高が参集して主治医小村とともにいろいろの策を試みたが、いくらかでも静かに言葉を交す気持になるのは、叔父晴高に対してだけで、それも長くは続かなかった。
「お前は大伴晴高ではあるまい」
十分間ぐらい静かに話しているうちに、宗久はモックと頭をもたげて、狂暴な目を光らせて、こう叫びはじめた。今にも刀を握って斬りかかりそうに見えるのである。
「これは異なことを言われる。よくこの顔を見なさるがよい。まさか私の顔を見忘れは致されまい」
「黙れ! 顔だけで信用はできぬ。貴様は須和康人であろう」
「顔だけで信用ができなくては、さて、さて、私もまことに困却いたすのう。それでは何をもって証明いたしたら納得なさるかの」
晴高にこう云われる
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