なおロッテナム美人術を信じその香料を身につくる者は大伴シノブ夫人のみなり、呵々、という新聞記事がもてはやされていたのである。
克子も婚礼前に、シノブ夫人にすすめられて、ロッテナム美人術へムリヤリ連れて行かれた。裸体で寝椅子にねる。いろいろの香料で洗顔し、全身の皮膚を洗い、最後に油をぬってマッサージして黒布で顔を覆い、全身を覆う。器に香料をたいて、これをささげた黒人の男と女が四囲をゆるやかに廻りつつ歩いている。そして香料の燃え絶えた時間の後に黒布をとりのぞき、油を去り、仕上げに薄く化粧して一日の手術を終る。これをくり返すこと五日または七日で全身皮膚なめらかにクレオパトラの如くに冴え、顔のシワを去り、霊水をたたえた如くにスガスガしく顔に精気がこもるという。
これがロッテナム美人術の広告の要旨である。ところが、高い金を払って五回七回くり返しても、シワがとれるどころか、かえって皮膚があれるばかりである。クレオパトラの玉の肌などとは途方もない大ウソである。たちまち人々に愛想をつかされてしまった。
このロッテナム夫人の売りつけた香水が「黒衣の母の涙」。はじめは高価を物ともせず、西欧かぶれの淑女貴婦人が争って買いたがったものだ。なにがし公爵夫人が身につけている。なにがし男爵夫人も買いもとめた、と一ツ売れるたびに噂がとんで、世を賑わしたものであった。その流行は十五日か二十日あまり。婚礼がその流行期に当っていたから、克子もシノブにすすめられて、ムリにこの香水を嫁入道具の中へ忍ばせられた程である。
もとよりシノブは当時からこの香水を愛用していた。しかしそれはシノブだけの話である。侍女のキミ子らがそれを身につけたことはない。一瓶が二百円という驚くべき高価な香料だもの、いかに流行といえ、第一級の金満家の夫人令嬢以外には手のとどかないものであった。当時の二百円は戦前の一万円にも当ろう。今なら何百万円の香水ではないか。
シノブ愛用の香水を侍女が身につけているのは意外であった。貴婦人はその香水が己れ一人に独特なのを誇るのが常識ではないか。だが、そのような常識論よりも、もっと奇怪な、謎のような暗合があるのだ。
それは兄が呟いたフシギな言葉、アラビヤの国の名エルサレム、それであった。
それが単にアラビヤの国名のみならば、まだしもそれに多く拘《こだ》わることは滑稽かも知れない。兄は長々と呟いたではないか。
「エジプトのナイルの河が海へそそぎ、その砂が海底をわたり、海を距てて積みなしたところ、アラビヤの沙漠の辺……」
これぞまさにロッテナム美人術の広告中の文章ではないか。兄がロッテナム美人術を知っているとはフシギなことだ。いつも書斎にとじこもり、世事に興味をもたぬ兄が。
「ここに、何かイワレがある……」
克子は石のように、考えこんでしまった。しかし、どのようなイワレがありうるというのだろう。克子はただの一度だけ訪れたことのあるロッテナム美人術の店内の様子なども思いだした。別に思い当ることはない。ロッテナム夫人は醜女であった。エルサレムの生れというが、当り前の西欧人によく見かける顔とそう変りはない。
変っているのは、むしろ煙りつつある香料の器をささげて寝椅子のまわりを歩く二人の黒人男女であろう。それはまさに真ッ黒けの逞しく大きな黒人男女であった。
そう云えば、もう一人、黒人がいた。これも大きな黒人で、やっぱり頭髪がチヂレていたが、これは手術室にははいらない。ただ出入りのお客の世話をやき、扉を開けたてする役であった。そして、この黒人がドアに左手をかけたとき、克子は目にとめて奇妙によく覚えていたが、その左手の指はたった三本しかなかったのである。
★
その翌日の暮方、克子はやつれ果てて我家へ戻ってきた。生きている人間の顔ではなかった。
兄の病床を見舞って以来一睡もせぬ克子ではあったが、今朝はこんなにやつれてはいなかった。通太郎も急変にそなえて別室に一夜を明したが、事もなく一夜は明けて、その報告に病室から現れてきた克子の顔は、疲れはあっても明るかったのである。そこで通太郎も安堵して、克子を残して己れは我家へ立ち戻ったのである。
しかるに短い冬の一日が暮れるまでの時間のうちに、妻は死の国を往復して、ようやく再びこの世へ這い戻ってきたような様子である。あの世を往復した人間にはこの世の挨拶がないのであろう。我家へ立ち戻って良人に再会しても感情すらもないようであるから、さすが沈着の通太郎も、
「まさか兄上の身にもしものことが……」
と思わず立ち上ると、克子はようやくこの世の風が目にとまったように、良人の胸に顔を埋めてさめざめと泣きくずれてしまった。
「兄上は死にました」
克子はむせびつつ叫んだ。
「おイノチに別状はありませんが
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