な事実もなかったのです。偶然やとわれた黒ン坊役の男が三本指だったのですが、黒ン坊役がすんだのち、秘密をまもるために殺されたのでしょう。さて、二人の侍女はなぜシノブ夫人の香料をつけていたか。その香料によってシノブ夫人の分身であると信ぜしめるため。たしかにそれも一ツの理由でしたでしょう。しかし、なぜお兄上が三人の異る女を同一人と信ずるに至ったか。かかるフシギな幻想を確信せしめるに至った力は、単に香水の如きものから生れる筈はありません。実にメンミツに構成された驚くべき仕掛けがありました。実に驚くべき複雑な仕掛けですが、その仕掛けは地球を半周して材料を揃えたほどの大仕掛けでした。まず、ロッテナム美人術というものが、実にただお兄上を狂人に仕立てる目的のために遥々《はるばる》日本へよばれてきたものでした」
 聴き手の顔が狐につままれたように無表情になったが、新十郎自身の胸の思いは、捕縛しがたい犯人や悪計を単に見破ったということが無に劣る侘びしさでたまらなかった。
「ロッテナム美人術は開店と同時に日本の貴婦人の関心を最大限に集めることができたほど、恐らく多額な資金を物ともせぬ万全な宣伝と用意のもとに発足しながら、悪評を受けてのち没落に至るまでのダラシない不用意と無力さは、前者の性格からはいかにしても導くことができない性質のものでした。開店の当日にはすでに日本の貴婦人たちの関心を完全にとらえていたという驚くべき充実した用意や実力によれば、すくなくとも貴婦人の魅力を相当の年月にわたって支える用意も実力も当然あるべき筈のものです。前後二ツの性格があまりかけ離れて違っているから、二ツの性格の共通点を見出すことによって、ロッテナム美人術の支配者の性格を知り目的を知ることが誰にもできませんでした。できなかったわけですよ。前後二ツの共通点を探していては分る筈がないのです。そして両者に共通するものが存在しなくて、両者全くかけ離れているという事実の方に、その真実の性格も目的も表されていたのですが、たとえそこまで分りかけた人でも、大伴家の秘密を知らない限りは、ロッテナム美人術の目的を知りうる筈はありません。即ち、ロッテナム美人術は貴婦人の心を完全に握って開店することが必要であった。つまり、開店することだけが目的でした。むしろ目的通りの開店に成功した後は、最も速やかに不評を浴びて没落する方が総てに都合
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