逃げそこなって倒れたところを突かれたのに相違ない。だが、妙だなア。正面から突かれているのに、まるで背中から突き伏せられたように、口が土をかんでるじゃないか。鼻の中まで土がついているぞ。突かれたあとで、ころげまわって、もがいて死んだのかも知れない。しかし、手は土を握っていないな。見れば相当な身ナリだが、どうしてこの山中へ来たのだろう?」
 菅谷巡査はこう怪しんだが、牛が犯人ときまれば、問題はナガレ目のアルバイトの方だ。徳川時代には死刑になった者もあるという人も怖れるアルバイトを自分の駐在する村の者がやっておって、それを自分が気附かなかったというのが、面白くない。
 ところが屍体の身元が分ってみると意外である。小田原の者であるばかりか、ガマ六と同じ町内の者だ。ガマ六の遊女屋と筋向いの「花房の湯」の主人、雨坊主というアダ名のあまり良からぬ人物の一人であった。
 彼の銭湯には湯女《ゆな》がいる。土地柄に名をかりて、巧みに手を廻して湯女の営業を公然とやっている。一方に建築請負業もやっているし、漁船も持っている。ガマ六のように腕力に物を云わせるヤクザではないが、どこに秘訣があるのか、雨坊主の政治力にはガマ六がいつも煮え湯をのまされる。とても成功の道はないと思われることを、雨坊主はさしたることもないらしく実現する力があって、いわばガマ六の怖るべき商売仇であった。
 ガマ六が美女を探して歩くのも、雨坊主に対抗しうる唯一つの策がそれだけだからで、これだけは政治力があっても、学問があっても、それとこれでは勝負にならぬ。要するに本当の勝負はここできまる。むろん、それぐらいのことは、雨坊主は誰より先に知っているから、サガミ山中を歩くのはガマ六だけではない。彼は建築請負業としては別荘造りが専門で、推古から現代に至る木造建築に秘密というものはない、自分はそのあらゆる様式を再現する能力があると宣伝している。自分の作は他日国宝になるものだ、というのが彼の口癖であったというが、その実は、彼は建築について完全に無学であった。筋も根拠もないことを言いまくるが、彼のコツは相手を見くびって何物も怖れぬということで、素人相手の談議だから、それで通用して、むしろ高く評価されていたそうだ。私が小田原にいたころは彼の仕事をした棟梁(そのころは小僧だ)が生きていて、一パイ飲み屋で問いもせぬのに時々昔話をきかされたものだ。
 そういうわけで、雨坊主が丹沢山中へ赴く理由は、建築業からも、湯女業からも筋は立っていた。
 ところが、ヤッカイ千万なことには、ナガレ目がタダモノではないということだ。変質者というのであろう。それも利巧すぎての変質者と異って、バカの上に変質者だから、彼がどういう不安や心配があって何を策謀しているか、その筋が普通人に分らない。
 ナガレ目の曰く、オレは死んでいた雨坊主というヤツは今まで一度も見たことがないヤツだ、と云うのである。こういうことを云えば、不利である。それならば誰のために木を伐っていたか。誰かのために伐っていた証拠にはその材木が彼の家にも炭焼き小屋にもないではないか。こう改めて余計なことを追求されなければならない。
 ところがナガレ目は平気なもので、前の取調べには一年前から時々伐っていたと云ったくせに、そんなことは眼中にないらしく、あの日はじめて伐りにでかけたのだ、と平然と云う。前に一年前からと云ったではないかと問いつめられても、奴めは全然問いつめられた様子がなくて、そんなことは言わないな、と云う。
 しかし、一年前から伐っていた証拠はあの密林をしらべればハッキリ分ることで、ちょうどそれぐらい伐られた跡がある。こう証拠をつきつけられても、彼はいささかもたじろがず、オレはあの日一日伐っただけだから、それでは、それはオタツだろう、オレはオタツが牛でもヘタバるような大きな材木をかついで行くのを何べんも見たことがあると証言した。どこで見たか。あの谷で見た。あの谷で何べんも見たか。何べんも見た。たった一日しかあの谷へ行かない筈のお前がどうして何べんも見ることができたか。木を伐ったのは一日だけだが、オタツを見たのは何べんも見た。こういう応答だからラチはあかない。そこでオタツが逮捕された。オタツが現代の人間なら、下曾我に埋もれている筈はない。ジャーナリズムが彼女を当代の名士の一人に祭りあげない筈はないのである。相撲とりでも片手に一俵ずつ、四斗俵二ツぶらさげて土俵を三べんまわることができるのは少いそうだ。オタツはその上、口に一俵くわえることができる。そのほかにも持つ方法があれば、もう一俵ぐらいは持てるだろう。背負う力は限りを知らず、と伝えられている。
 逮捕されて取調べられたオタツは、事実無根を言い張ったが、ナガレ目が彼女に不利な証言をしたことを知ると、顔がカッと真ッ
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