も腹が立った。下曾我はもとより国府津、小田原できいてみても、当日ガマ六が酒をのんだという店は一軒もない。小田原で顔を知られていないのを幸い、お客になりすまして式根楼へ登楼し、一番お人よしでお喋りらしい妓を選んでさりげなく楼主のことをききだしてみると、
「旦那がここをでたのは死ぬ日の前日よ。ここを出る時は着流しに下駄だけど、町はずれの店でワラジにはきかえてスゲ笠を買ってかぶったそうですよ。ブラリと旅にでる時はいつもそうする習慣だったそうですよ。オカミサンの話じゃア三千円ぐらいの大金を持って出たそうだけど、お金もスゲ笠もないそうね。人に殺されてお金をとられるような旦那じゃアないけど、敵があるからねえ。ヤクザはこわいよ」
意外な話である。菅谷は大いに力をえて、
「ガマ六の片目がなかったそうだが、片目はイレ目らしいなア」
「チョイト。アンタ。どこか足りないんじゃないかい。ヤブニラミのイレ目をワザワザつくる人があると思うの」
だいぶ足りなそうな女にこう云われて、せっかくハリきった菅谷も戦意トミに衰えてしまった。考えてみればノータリンのこの女がこう云うぐらいだから、その辺のことは警察が心得ていない筈はない。ヤクザ同士のモツレじゃ相手悪しと見てごまかしているのかも知れん。オレだけが名タンテイぶって、あんまり深入りするのも考え物かも知れないなア、と一応悟るところもあった。
★
ところが更に奇怪なことが起った。
下曾我からかなり離れているが、丹沢山の山中へ深くはいったスリバチ型の谷に非常に良質のヒノキが自生しているところがある。ここは入会地《いりあいち》ではなくて、所有者がハッキリしていて山番も居り、ひそかにこのヒノキをきりだして徳川時代に死刑になった例があるから、大工や普請好きの面々にスイゼンの良材の宝庫であるが、誰も踏み入ることのない秘境であった。
この秘境から一匹の大牛が猛然と走り現れた。この牛は狂っている。牛が狂って全速で走るとゴムマリがはずみながらころがるように、背をまるくして小山のように大きくはずみながらポンポンとマッシグラにとび去るものだ。人里へ現れ、おどろいて怖れ隠れる人々に目もくれず下曾我までとんできた。とまったところはナガレ目のウチの牛小屋である。そこがその牛の小屋であった。ナガレ目の飼い牛ベンケイであった。
ベンケイの角と顔が
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