寝ているのだろうと話し合って、別に気にかけずにねむった。二人が眠りにつきそうなころ、裏庭にちかい井戸の中へ何かが落ちたのかボーンバシャッという大きな水音がきこえた。ラクは自分の気持では首を浮かしたように思ったが、実は首を浮かそうと思っただけで、彼女の身体の過半を占めかけていた睡魔が実際の行動をとめていたようだ。
「何か音がしたわね?」
ラクがこう呟くと、
「そうね」
オソノが答えたが、ラク以上に睡魔に占領された声であった。
「裏庭の井戸じゃアないかしら?」
「そうね」
その返事に生気ある手応えがないのでラクもそのまま寝込んでしまった。こうして三枝子の姿は邸内から掻き消えたのである。
★
翌朝二人は三枝子が彼女らの使用しうるどの部屋にも寝た形跡がないのに気がついたし、第一、由也の夜食に用意したものがそッくり台所の置かれた場所に在るのにも気がついたが、まだ二人はさのみ疑る心を起さない。掃除に立ったオソノが台所で食事の仕度中のラクのところへ戻ってきて、
「玄関が大変よ。由也様は玄関へお吐きになってるわ。玄関は足跡で泥だらけ。下駄がないのですもの。大方カミナリで慌ててお駈けになって、夜道で下駄をなくなされたようね」
泥の足跡があんまりひどいらしいので、ラクも行ってみると、なるほど泥の足跡が入りみだれている。吐いた汚物は洋書の上にかかっており、由也は吐くためにかがんだとき所持した本を落してその上に吐いたのかも知れない。
「ナマのようなネギだのシラタキだのお肉のようなものだの、スキヤキをそっくり吐いてらッしゃるよ。この本はどうしたものかねえ」
汚物には灰をかけて、すくッて持ち去ってオソノが便所へすてた。洋書は汚物を洗って干したが、一夜汚物の下になっていたから、紙を傷めないように洗うのは大変だった。玄関の戸締りもしてなかったし、クグリ戸のカンヌキもおりていないのは泥酔のせいであろう。
さて足跡であるが、誰かが一応ふいたようなところもある。しかしクラヤミのせいか、よく拭きとられていないのだ。
「お手を鳴らしにわざわざ歩いていらしたのよ」
台所の近いあたりまで来たらしい足跡がある。しかし、玄関のところにベタベタと諸方に泥のあとがあるのは、そこでよほど難渋したのであろう。玄関のヘドでも難渋の理由が分るようだ。
「三枝ちゃんがクラヤミで拭《ふい》たのでしょうか。よくふきとれてないけど」
オソノはそんなことを呟いて、由也の寝室の入口まで泥の跡をたどって、みんなキレイにふいた。来客用のお座敷の次が仏間、それから由也の部屋だ。ところが、座敷の床の間の青磁の花瓶と、飾り物の大きな皿が、二ツながら割れている。皿の方は柿右衛門の作とか、青磁は支那の逸品とかで、母里大学という人は陶磁器に趣味がありその所蔵品には相当逸品があるそうだが、この二ツは特に彼の愛蔵の自慢品で、女中たちはその取扱いにはかねて特別の注意を厳命されていた。自分が割ったのではないのに、それを見ただけでオソノは真ッ蒼になってしまった。おどろいてラクにしらせる。二人は顔を見合せたままゾッと立ちすくんでしばし言葉もなかったが、家宝の品物の破損、三枝子の行方、それまで実際の不安となるに至らなかった三枝子の行方不明が、にわかに決定的な怖しい事実として迫ってきた。
あの裏庭の井戸の中へ何か落ちたらしい音。
日本人には誰しもピンとくる筈であろうが、女中という身分の者には特に身につまされることでもあろう。特にそれが貴重な瀬戸物であれば、ケースは全く同じではないか。番町皿屋敷。
ピンときて、ゾッとして、以心伝心、蒼ざめて立ちすくんで、とても言葉には語り得ず、語らなくともピンピン分り合う二人であったが、馬丁の当吉は男のことで、
「なア、オイ。ゆうべオレが小屋へもどって、さて、寝ようというときに、ボシャーンという大きな音がしたなア。たしかに裏庭の井戸だと思うが、まさか……」
二人の女はその三分の一も聞かないうちから、もう、やめて、と手を合せて拝みたいほどの怖しさ。
午《ひる》ちかくなって、ようやく由也が起きたから、貴重な品物の破損を示して、何かお気づきのことが、ときくと、
「ウム。そうか」
由也はうなだれて何か考えこむ様子。その顔色の蒼いのは深酒の宿酔《ふつかよい》のせいか。まるで彼自身がこわしたようにジッと考えこんでいたが、
「三枝があやまって、こわした。雷鳴のせいか、よろけてその上に倒れたのだ。そして、泣いていた」
泣いていた。そこに全てがつきている。泣いていた三枝子の悲しさが彼女らの背中を水が走るようによく分る。当吉はお人好しだが、大の弱虫。三枝子が中に死んでいると知って井戸へ降りられるような男ではない。セッパつまって警察へ届けると、相当上の警官と若い巡査が井戸屋をつれてきてくれた。おどろいたのはラク。宿六の大弱虫野郎め。由也様のお許しもうけずに巡査にたのむとは。慌てて巡査と井戸屋を待たせておいて、急を由也につげる。そのとき由也は茶の間でオソノの給仕でようやくおそい朝食であったが、裏庭の、ときいて、
「エ?」
ギョッとして、信じられないらしく、次には怖しい想像に打ちのめされたらしく、
「裏庭の……」
井戸という言葉が言い切れないらしいのだ。オソノとラクがそうで、朝からまだ一ぺんも、その問題の中心たる名詞だけ発音できない始末であるから、同感によって三人ながらゾッとしてしまう。
「裏庭の……。そうか。それを巡査が。そうか。仕方がない。そうだったか」
病みつかれたような、よくききとれないような衰えきった呟き。まもなく、ポトリと箸を落した。ジッとうなだれていたが、食事の途中だというのに、ヒョッと立ち、フラフラと茶の間を去って、自分の部屋へ戻ってしまった。
オソノがあとからお茶をもって行くと、由也は机の前にボンヤリ坐りこんでいたが、
「もうお食事はよろしいのでしょうか」
ときくと、由也はそれに答えずに、
「三枝が裏庭の井戸にとびこんだのを誰が見たのか」
「私ども一同が水音をききました。誰も見た者はありませんが、あの皿屋敷のように」
そのときだ。実にその瞬間、由也はまるで目マイでも起したのか、フラフラフラと、身ぶるいを起して、ホッと一息して、
「そうか。皿屋敷か。そうだったか」
すくむように、うなだれてしまった。
ところがフシギなことが起った。井戸屋が井戸の中をしらべてみると、女中の死体などはないのである。なにぶん大豪雨のあとだから井戸水はおどろくほど増水して、深い井戸だが、相当水がせり上っている。とても底までくぐることができない。棒を突ッこんでみると、水の深さ四間半もあって、とても底まで潜って調べられない。棒でついて慎重に探してみたが、どうも何もないようである。上役の警官は気が強くなったのか、
「どれ」
と、自分もフンドシ一ツになり、井戸の中へ降りて水中をよくかきまわしたのちに、
「オレは房州生れだからアマの作業を見て知っているが、四五貫の石をつけると底まで一気に楽に沈んで調べることができるだろう。手の石を放せば浮くのは楽だ。四間半なら大事あるまい」
二人の井戸屋に命じて息綱を腰にまかせてイザというとき引っぱりあげる用意をしてやり代る代る石を持たせて底をさぐらせ、自分も同様な方法で三べんも底へくぐって調べて、遂に井戸の中に誰の死体もないことを見とどけたのである。
「この井戸に身投げしたものは確かに居ないぞ。この近所に、ほかに井戸はあるのか」
むろん当時のことで井戸のないウチはない。母里家の台所は田舎風の土間になっておって、台所の中に内井戸がある。そのほかに馬小屋の横にも井戸がある。この二ツをしらべてみたが、同様に三枝子の死体はなかった。近所の家の井戸も見せてもらッたがどこにも三枝子の死体はない。
「すると、井戸へ石でも投げこんで死んだと見せて、自分のウチへ逃げて帰ったらしいぞ。三枝のウチはどこだね」
「三枝ちゃんのウチは没落して家も身寄りもないらしいのですが、たッた一人の兄さんがオソノちゃんの実家に居候だかお客様だかで居るようです。ねえ、オソノちゃん。たしか身寄りはそれだけだったねえ」
「そうか。それではオソノの案内でちょッと確かめてこい。居たら連れてこいよ」
と、若い巡査に言い含め、オソノの案内で下谷のオソノの実家へ向わせた。
★
三枝子の兄は頼重太郎と云って、二十五になる大学生だ。苦学のために、年をくっているが、秀才でもあるし、豪胆な熱血児であり、正義を愛し、弱者貧民のために身をなげうとうと心をきめた快漢であった。
オソノの実家は代々非人頭で、車善七の血統をひく今でも乞食の頭目。しかし彼は重太郎のすすめで五年前に乞食をやめ、薬種商をひらいている。実に重太郎が乞食の世界を巡歴して彼らを正業につかせようと努力しはじめたのはわずかに十七の時である。この少年の献身的な忠言に耳をかたむけてくれたのは、オソノの父、車長九郎あるのみだ。彼は薬屋をひらいて、輩下の希望者を行商人に仕立て、同時にとかく不衛生そのものの乞食どもにクスリを与え、まず健康、それから正業につかせようと努力した。けれども三日やると止められない乞食を先祖の代からやってる連中だから、誰も乞食をやめたがらない。生れつき乞食であるのに不服がないから、その身分に恥を感じなければ乞食をやめたがらぬのは当然かも知れん。
車長九郎は輩下の者が自分を見ならってくれないのにガッカリしたが、学業をなげうって乞食のために献身しようという重太郎を今度は彼がいさめて再び学業につかせた。重太郎は学業のかたわら乞食部落に寺小屋をひらいて、乞食の子供に教育をさずけ、子供が大きくなった時には乞食部落が自然消滅するような長期計画の実行にうつった。彼はヤソ教の教会で知り合った同じ信者の今村左伝夫妻にたのみ、三枝子とオソノを母里家へ女中奉公にだした。というのは、今村カメ女は貧乏士族の娘で、同じように貧乏士族の左伝と結婚して母里大学の家令をやって細々生計をたてているが、実は今村カメ女と云えば歌人としても名があるし、書道、華道、茶道、料理に一流の見識があって、その道では重んぜられている人だが、深くケンソンして弟子をとらず、清貧に甘んじ、それを知る人々には一そう奥ゆかしく見られておる。カメ女がそういう人であるから、妹と乞食の頭目の娘の身分をあかして、その膝下に行儀見習いにだした。弟子をとらず、また自宅に女中をおくような人ではないから、託された二人を母里家に奉公させて行儀を見習わせることにしたが、母里大学は乞食の娘ときいても驚きもしなかったが、妻のヤスノと娘の多津子は乞食の娘ときいてオソノと三枝子をいやがる。特に娘の多津子はオソノと三枝が非常に容姿の美しい娘であるから、それにネタミを持つのか、いろいろと二人にイヤガラセや辱しめを与えたりする。また先輩女中のハツエがこれ幸いとそれをたきつけるようにする。多津子は父母にせがんで、貧乏士族の娘の佐和子というのを女中にやとってもらい、それを自分たちの小間使いにして、
「佐和子は士族ですから佐和子に私たちの身のまわりを見てもらいます。ハツエも町家の出だからまアよろしい。お前方二人は乞食の子だから、穢らわしいから私たちのお部屋へはいらないように」
折にふれて、こう云う。大学生の由也は先妻の子だが、兄が三枝子やオソノに用を云いつけるのにもヤキモチをやいて、兄がそうしないように中傷したり二人にシクジリをさせるような陰謀をたくらんだりする。三枝子は重太郎の妹。兄は乞食部落に住んでいるが、没落したとは云え、歴とした旗本の子孫だ。その旗本というのがシャクにさわるから、これも乞食の妹ときめている。
今村夫婦は一応それをかばうように取はからってくれもするが、実はやっぱり旧弊が身についているから、先祖代々の乞食の娘ということに色目をもっていることは、当人が何よりそれを感じ易くて、三枝子とオソノはまだ子娘ながらも今村カメ女必ずしも奥ゆかしい超俗の詩人にはあらず、
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