った音は三枝子に判らなかったらしいのである。それが判れば彼女は立って迎えたはずであった。
 この晩のカミナリは実に長時間にわたった。由也が戻ってきたのは九時半ぐらいから、十時までの間だろうと考えられている。とにかくその時は大雷雨の真ッ最中であったが、この晩のカミナリは母里大学邸を中心にそのまわりを二回三回四回とゆっくり散歩しているのか、前後左右の天地を割り裂きつつ、遠ざかると思えば近づき、右にまわれば、左に引き返し、実に十一時をすぎるまで大雷雨がつづき、ようやくハッキリと遠ざかったのは十一時半。十二時をすぎても、まだ思いだしたように、雷鳴が起っていた。
 三枝子はなかなか女中部屋へ戻らないようであったが、由也の帰宅がいつもより早く九時半か十時ごろであったし、おそく帰宅して食事するのはこの連夜その例があるから、前もって夜食の用意はととのえておいたし、三枝子は台所で、用意のものを取り揃えて持参し、それらの用で当然時間がかかっているのだろうと、誰も怪しまず、そのうちに三人ながら眠ってしまったのである。
 まッさきに目をさましたのはラクらしい。まだ雷鳴もはげしく豪雨もあった。それから三四十分以上もたったらしく、どうやらハッキリ遠方へ去って、雷鳴がかすかになったので、カヤの外へでて手燭に灯をつけて、女中部屋の柱時計を見ると、十二時十分前だ。そこで亭主の当吉をゆり起して、お前さんは帰ってお休み。いつまでも女中部屋にねていちゃいけないよ。どうやら雷もやみそうだから、と彼の小屋へ戻らせた。当吉がモゾモゾ起きつつあるときにもピカリときたが、よほどたって遠雷がきこえた。いッたんハッと坐ってしまった当吉は、遠雷の音をたしかめて安心して去ったのである。ラクはオソノをゆりおこして、
「あなたも寝こんだのね。三枝ちゃんはどうしたのだろう? もう十二時だというのに、どこにいるのかしら? 私たちがカヤの中イッパイにフトンをひッかぶっているから、よその部屋でねていたのかも知れないわ。カミナリがやんでみると暑いのが分るわねえ。雨戸をしめきっているのだからねえ。三枝ちゃんは暑くッてこの部屋に居たくなかったのだろうね」
 実際オソノも汗グッショリであった。もう一ツの女中部屋にも三枝子の姿はなかったが、湯殿の隣室の化粧部屋とか、下の者の出入口につづく控えの小部屋のような涼しそうな部屋が諸々にあるから、そこに寝ているのだろうと話し合って、別に気にかけずにねむった。二人が眠りにつきそうなころ、裏庭にちかい井戸の中へ何かが落ちたのかボーンバシャッという大きな水音がきこえた。ラクは自分の気持では首を浮かしたように思ったが、実は首を浮かそうと思っただけで、彼女の身体の過半を占めかけていた睡魔が実際の行動をとめていたようだ。
「何か音がしたわね?」
 ラクがこう呟くと、
「そうね」
 オソノが答えたが、ラク以上に睡魔に占領された声であった。
「裏庭の井戸じゃアないかしら?」
「そうね」
 その返事に生気ある手応えがないのでラクもそのまま寝込んでしまった。こうして三枝子の姿は邸内から掻き消えたのである。

          ★

 翌朝二人は三枝子が彼女らの使用しうるどの部屋にも寝た形跡がないのに気がついたし、第一、由也の夜食に用意したものがそッくり台所の置かれた場所に在るのにも気がついたが、まだ二人はさのみ疑る心を起さない。掃除に立ったオソノが台所で食事の仕度中のラクのところへ戻ってきて、
「玄関が大変よ。由也様は玄関へお吐きになってるわ。玄関は足跡で泥だらけ。下駄がないのですもの。大方カミナリで慌ててお駈けになって、夜道で下駄をなくなされたようね」
 泥の足跡があんまりひどいらしいので、ラクも行ってみると、なるほど泥の足跡が入りみだれている。吐いた汚物は洋書の上にかかっており、由也は吐くためにかがんだとき所持した本を落してその上に吐いたのかも知れない。
「ナマのようなネギだのシラタキだのお肉のようなものだの、スキヤキをそっくり吐いてらッしゃるよ。この本はどうしたものかねえ」
 汚物には灰をかけて、すくッて持ち去ってオソノが便所へすてた。洋書は汚物を洗って干したが、一夜汚物の下になっていたから、紙を傷めないように洗うのは大変だった。玄関の戸締りもしてなかったし、クグリ戸のカンヌキもおりていないのは泥酔のせいであろう。
 さて足跡であるが、誰かが一応ふいたようなところもある。しかしクラヤミのせいか、よく拭きとられていないのだ。
「お手を鳴らしにわざわざ歩いていらしたのよ」
 台所の近いあたりまで来たらしい足跡がある。しかし、玄関のところにベタベタと諸方に泥のあとがあるのは、そこでよほど難渋したのであろう。玄関のヘドでも難渋の理由が分るようだ。
「三枝ちゃんがクラヤミで拭《ふい》た
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