ほかの利息はぬいてやるから、五年目に一万円返すがよい。分ったな」
 志道軒、常友がうなずくと、証文をとって、
「用がすんだら、帰れ」
 左近の顔には、相変らず薄笑いが浮んでいた。
 志道軒は待望の大金をわが手におさめた喜びも大方消しとんだようだった。彼は恐しいものを見たのである。恐らく鈍感な常友は気がつかなかったであろうが、人の顔色をよむのが商売のコツでもある志道軒には、こんな恐しいことはむしろ気がつかずにいたいもの、いろいろと人の顔色を見ていたが、こんなムザンな顔を見たのは生れてはじめてのことだ。
 左近が札束を二つにわけて常友と志道軒に渡した時の幸平の顔というものは、突然あらゆる感情が無数の鬼になって一時に顔の下からとび起きて毛穴から顔をだして揃って大きな口をあけて首をふりまわしたようだった。幸平の目だの口だの鼻だのへ誰かが棒をさしこんでグリグリまわしているのに、その棒を突ッかえして飛びだしてくる無数の小鬼がいるのだ。彼は本当に大きな口をアングリあけて、二ツの目玉がとびだしたままだった。
 幸平がいそいそと来着して、初対面の人たちへの挨拶もウワの空に包みを解きはじめた様子を思いだすと、志道軒には全ての事情が察せられたのである。この男は自分に貸してくれる金だと思って、喜び勇んで持参したものにきまっている。左近はフンとも云わずに受けとって、それを直ちに他の二人に、彼の目の前で分け与えたのである。
 幸平のムザンな顔もさることながら、それに相対するものとして左近の薄笑いを考えると、それは人間のものでもなければ、鬼のものですらもない。
 二十五年ぶりに老父を訪れたときに、いきなり一万円貸してやろうと云いだした時、父の顔には悪病にかかった薄笑いがついていて、それをはぐと、下には死んだ顔、青い死神の顔があるような気がした。その顔と今日の顔とが結びついているのだ。
 常友や自分に金をかしたのは、常友と自分に金を貸すことが目的ではなく、幸平にそれを貸さずに、彼の目の前で他の二人に分ち与えるのが目的だったのである。
 左近が自分に一万円貸そうと云ったとき、彼が薄笑いを浮べて見ていたのは、この日の瞬間の幸平の顔だったのだ。
 志道軒は幸平の顔ばかりでなく、彼の実母ミネの顔も見た。それはやや時をへて後のことであったが、うちひしがれても、うちひしがれても、怒りの逆上するものがこみあげてくるような悲しくすさまじい顔であった。
 左近が一万七千円を投じて眺めてたのしみたかったのは、それらの顔であったらしい。それらの怒りや逆上や憎しみであったのだろう。彼にとって血のツナガリや家族とはクサレ縁、むしろ悪縁ということだ。悪縁の者どもが己れに向って人間の発しうるうちでその上のものはないという憎しみや怒りや逆上に狂うのを彼は眺めたいのであろうか。彼の冷い血は、それを眺めてはじめて多少の酔いを感じうるのであろうか。まったく彼の体内に赤い血があるとは思われない。青い血や黒い血が細い泥のように流れているかも知れない。これが人間だということも、自分の父だということも、考えることができなかった。
「これが五年前のことでござんすよ」
 と、倉三は長い話を一と区切りして、冷い杯をなめた。
 彼の顔は妙にゆがんだ。はげしい嫌悪が、とつぜん彼の顔に現れたのである。草雪が瞬間ギョッとしたほど生々しいものであった。倉三は平静にかえった。
「さて、五年前は、とにかく、これで済みましたが、五年後に何が起ると思いますか。その五年後が、実はあしたなんで。イエ、あしたが五年目の同月同日てえワケではありませんがね。五年前に輪をかけたことがオッぱじまろうてえ段どりで、私は永の奉公の奉公じまいという三日前に、旦那の云いつけで、一々案内状を持ってまわって来ましたんで。明日は水野左近の息子と孫がみんなあそこへ集りますが、そこで何がオッぱじまるかてえと、これが五年前にチャンと水野左近の頭の中に筋書ができていたのでさアね。呆れた話で」
 倉三はムッと怒った顔になって、ちょッと口をつぐんだ。

          ★

 五年前のあの時には、何事にもジッと堪え忍ぶことに馴れているさすがのミネも血相を変えた。わが身のことに堪え得ても、子供のことには堪えられぬ母の一念であろう。
 あまりと云えばムゴタラしい仕打ちです。それではこの子があまり気の毒です、と、日頃の我慢を忘れて泣き狂い叫び狂うミネの狂態を半日の余もじらしたあげく、左近は薄笑いをうかべて、こう云ったのである。
「なるほど、片手落ちはいけないな。五年目にお前の子にも、なんとかしてやろう。五年ぐらいは夢のうちだな」
 その五年目が明日であった。
 その三日前、倉三が当日限りでヒマをもらうという最後の日によびよせて、
「今日がお前の奉公じまいの日だな。奉公
前へ 次へ
全13ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング