思われません。なにとぞ御援助下さいませ」
 志道軒はこの場のおのずからの対話、そのおのずから感得されひきこまれた何物かを考えて、これをやっぱり墓場の対話とよぶべきであろうと考える。あの相対する人の薄笑いをはいでみると、その下には、どうしても死んだ顔があったのだと考えるのである。
 こういうわけで、志道軒はひょッと老父を二十五年ぶりに訪ねたおかげで、どういうワケだか分らないが、大金をかりるようなことになった。
 志道軒は父よりの知らせによって、土曜日の午後に証文を持参して、父を訪れた。すでに一人先客があるのは、これが彼には初対面の自分の子供、お清の生んだ常友なのだ。お清の気質をうけたのか、育った環境のせいか、自分の子供のように思われるところは全くなかった。なんと挨拶の仕様もない困った気持であるが、左近はそういう俗世の小事には全く無関心の様子で、その冷さは人情の世界に住みなれている志道軒のハラワタを凍らせるような妖しさだった。
 そこへ流れる汗もふき忘れた如くに急ぎ来着したのが幸平である。この一族には父子の交りも行われていないから、近い血のツナガリある人たちであるが、みんな初対面である。左近が黙っているから、ミネがたまりかねて、幸平に志道軒や常友を紹介する。母の違う兄だの甥だのと云っても、一人は兄どころか親父にしても若くはないような変った風態の大入道。一人は甥だというが自分よりも年上の無学文盲のアンチャンだ。そんなものを一々気にかけてはいられない。実に幸平はそれどころの話ではないから、初対面の人々への挨拶などはウワの空。
 持参の包みを急いで開いて、預金帳と印鑑を一万七千円の包みの上に重ねて差出して、
「御命令によりまして一万七千円ひきだして参りました。どうぞお改め下さい」
 左近はアリガトウも云わなければ、軽くうなずきもしなかった。実にただ薄笑いをうかべて、幸平の差出したものを黙ってつかんで、まず預金帳を懐中にしまいこみ、次に印鑑をつまんでヘコ帯の中へ入れてグルグルまきこみ、それを帯の一番内側へ指で三四度押しこんでから、札束を掴みあげた。
 一万円の束から千円|算《かぞ》えてひきぬいて、それを七千円にたして、
「この八千円は常友にかしてやる。こッちの九千円はタイコモチにかしてやる。タイコモチのは一万円から千円天引いてあるが、高利貸しにくらべればなんでもない。その代り、
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