句についてである。
「生きているのはやさしいが、死ぬのはむつかしい」
まったく謎のような言葉である。いろいろな意味に解せられるが、どの答えもこの事件の答案にふれているようには思われない。
光子は駒守によびつけられて叱られたのは、云うまでもなく良伯が告げ口したためだ。あの悟りすました坊主のようなトボケた良伯が、この会話によって告げ口したのは、よくよく重大な意味が会話の裏にひそんでいるために相違ない。
その結果として、文彦が後嗣であり、風守には後嗣の資格がないことを、駒守は光子に明かにしているのだ。そのワケが、この会話のどこにひそんでいるのだろうか。
「すでに遺言状もあるが、まだ文彦の後嗣たることを公表する時期ではない」
時期ではない。妙な言い方があるものだ。時期とは、何をさしているのだろうか?
「母なき子あわれ。母ある子幸あれ」
という一枝の呪文をきいて、駒守は岩がゆれだすように高笑いして、詩心《ウタゴコロ》はあるが、バカな奴メ、とアッサリ片づけているのである。そこにも意味がありそうだ。
すべてそれらのことは、コクリサマの後に、英信が妙に確信をもって木々彦に答えた言葉によって、真相の核心にふれている何かが目ざましく閃きたっているように感じられるのはなぜだろう。
英信はコクリサマが「きょうしぬ」と告げたことに対して、きわめて確信的に、
「今日はあの方の死ぬ日ではない」
と木々彦に答えたというのである。「今日はその日ではない」。それは風守の死ぬ日についての英信の言葉であるが、駒守は光子に向って「文彦の後嗣たることを公表する時期ではない」と言っている。示す物は別であるが、二ツともに「時期ではない」という点が共通しているのは、なぜだろう。なにか時期というものがハッキリしている秘密があるのではなかろうか。とにかく時期ということが、この事件の核心に隠れているように思われるのである。しかも、ひるがえって英信の謎の言葉を思いみよ。
「生きているのはやさしいが、死ぬのはむずかしい」
妙に曰くありげな言葉である。しかも、死ぬのはむずかしいそうであるが、駒守も風守もアッサリ死んでいるではないか。英信の曰く「今日はあの方が死ぬ日ではない」というその当日に。その舌の根がまだ殆どかわかぬうちに。まことに妙な「時期」である。
それにひきつづいて一枝の疑惑を思いだすと、妙な結論がでてくるのである。「今日はその日ではない」と確信的に云いきった英信は数十分後に不審な挙動で戻ってきて、甚しく混乱していたようである。そして、その混乱の理由は、「その日ではない」筈のことが、「その日である」ことに変った意外さに、混乱したと見ては不可《いけな》いであろうか。事実はまさしく、英信にとって「その日でない」筈のことが、その日になっているのである。もう一つ、「時期」について、重大なことがあった。藤ダナの下で、英信は風守が大病であり、近々死ぬということを確信的に光子に語っているのである。これも亦フシギな謎であった。早急にとける謎ではないようだ。
新十郎は光子にきいた。
「あなたが風守さまをごらんになった時のことを、よく思いだしてきかせて下さいませんか」
光子は一度考えたが、諦め顔になって、
「特にお話申上げるような印象はございませんの。この家や宿を出発するとき、宿へついたときに、カゴを降りなさるのを、ちょッとお見かけしただけですから」
「話し声はおききになりませんでしたか。笑い声とか呻き声でもよろしいのですが」
「いいえ。ついぞお声をおききした覚えはございません」
そう言ってから光子は顔色を変えて叫んだ。
「イエ、一度だけ、お声をききました。あの怖しいお声。火焔の中でお叫びになったたまぎるような声でした」
新十郎はそれをいたわるように、やさしく、また彼自身もいたましげに顔をくもらせ、
「それは、どんなお声でしたか? 似たような声をおききになったことがありますか」
「いいえ、似たような声などとは、とても。ただ怖しい叫び声でした。思いだしても、身がすくむように感じられます」
「風守さまは駒守さまと同じような、岩のようなお体格でしたか」
「いいえ似ているところはございません。長いマントのようなものを身につけていらしたから、たしかなことは分りませんが、むしろ痩せて弱々しいお体格に想像されます」
「さきほど、風守さまは天才だと仰有いましたね。そのワケはなぜでしょう?」
「十一二から十八までの詩文のお作品を拝見いたしたからです。難解で正しい観賞はできませんが、そのように思ったのです。この奥の座敷牢に、まだソックリある筈でございます」
光子は無学をはじらッてか、顔をあからめて答えた。新十郎は彼女から訊きうるすべてを訊き終ったので、座敷牢へ案内してもらった。詩文の稿本はそッくり残っていた。
「風守さまの天才をゆっくり観賞したいと思いますが、しばらく拝借できましょうか。決して損んじたり失ったりはいたしません」
「どうぞ」
という許しを得て、それを大事にフロシキに包み、病める天才の起居した牢内をテイネイに見て廻った。造られてから二十数年の年月に、古びてはいる。しかし刃物や筆などでイタズラの跡はなかった。無気力で身動きも容易ではない病弱な人の衰えきった起居の様を示しているようであった。
土彦や文彦の話もきいたが、光子のような謎のこもった観察をきくことはできなかった。
最後に英信に会った。木々彦の生死が不明なだけで、事件そのものの存否も確かではないのだから、新十郎は多くのことを訊かなかった。
「今後も御研究をおつづけですか」
こう新十郎がきくと、英信は暗い顔をくもらせて、
「つづけたいと思ってはいます。西洋へ遊学させて下さるようなお話もあったのですが、大殿さまが御他界では、その望みもかなうかどうか分りません」
「妙なことをお訊きするようですが、藤ダナの下で光子さまにこう仰有ったそうですね。生きているのはやさしいが死ぬのはむずかしい、と。これは、どの意味に解すべきでありましょうか」
「それは……」
彼はちょッと口ごもったが、新十郎の問いかけをさげすむような風もなく、
「宗教家としての悟道的な意味によるちょッとした見解にすぎません」
「なるほど。私はあるいはそうではないかと拝察いたしておりました。次に、コクリサマのあとで、今日は風守さまの死ぬ日ではないと断言なさったそうですね。それはどういうことでしょうか」
「ただ、そう確信していただけです」
「なるほど。すると藤ダナの下で、風守さまは近々なくなられる、と仰有ったことと関係はございませんか」
そのとき英信の顔がひどく陰鬱に変ってしまった。彼は力のない声で呟いた。
「それは、心の迷いです。心の迷い。心の迷い。いけなかった……」
なんという打ちしおれた様であろうか。そしてこれをいかに解くべきであろうか。しかし新十郎はそれ以上はきかなかった。ただいたましげに、英信のしおれた様をジッと見ていただけであった。
八ヶ岳山麓の調査を終って、新十郎はいったん東京へ戻ることになった。東京へ戻ると、まず多久家の別荘へ駈けつけたり、英信の学んだ学林へ赴いたりして、彼の筆跡を見せてもらい、八ヶ岳山麓から持ってきた稿本にてらし合わせて調べた。彼は風守の天才を観照するためではなく、その筆跡を鑑定するために稿本を借りてきたようであった。
「どうです。二人の筆跡はよく似ていると思いませんか。十八と二十とで年齢のひらきはあるが、よく似ている。むしろ同じ手のようだと思われる程ではありませんか」
彼は二ツの筆跡を花廼屋と虎之介に示した。たしかにそれは同一人の手のように似ていたのである。二人もそう思った。
新十郎は暗然として呟いた。
「多久駒守は、なぜ覆面したか。まったく、駒守は、神様のように頭の働く人だ。国家の枢機にたずさわると、海舟先生の次ぐらいに手腕を示した人物かも知れない」
虎之介は呆気にとられて訊ねた。
「すると、あなたは犯人を御存知か」
「まア大体事件の全貌は分ったようです。ただその裏附けを確めるために、テンカンと夢遊病者のことを専門の先生におききすることが残っているだけのようです。では皆さん、今日はさよなら。明日の午《ひる》ごろ、拙宅でお目にかかりましょう。誰が犯人か、それは明日までのオタノシミ」
新十郎は二人をのこして行ってしまった。
★
虎之介は海舟の前にかしこまっていた。虎之介の話をきき終り、海舟は悠々自在、無我の境に遊ぶようにナイフを逆手に、後クビの悪血をしぼっていた。心ゆくまでタンネンにしぼりつづけているようだ。そして静かに口をひらいた。
「犯人は云うまでもなく火中に自決した駒守その人。ほかに罪ある者はおらぬ。人デンカンとは世をあざむく計略。風守は癩病だよ。生れながらの業病を隠すために人デンカンという奇妙な病人をつくりあげて覆面させたのだろうよ。目のない覆面だということだから、生れながら目がつぶれていたのかも知れないな。それを承知で一度は後嗣に選んだのは、その業病のために一そういたわりをよせる駒守の心事、豪気の丈夫にふさわしい痛快なあわれみと云うべきであろう。だが、いささか情に溺れすぎたところもある。人心を洞察すれば、その然らざる理は当初に心づいて然るべきであったのさ。業病の血をもつ母の故に自害した先妻も哀れの至り。謎をとけば、哀れの至りで、寝ざめのよい事件ではない。テンカンもちのキチガイなら、座敷牢を傷めもしようが、虚弱な業病人でメクラときては、傷めようもないのさ。それを才子に見せかけるために、英信が風守になり代って詩文を書いたのも哀れなことだ。駒守は文彦を後嗣に立てる遺言状を残して、風守とともに世を去る時を待っていたのさ。彼がいかに風守をあわれんだかは、彼も同様の覆面を用いた心事によってよく察することができよう。英信はすべての秘密を知りつくした唯一の人物。やがて駒守が風守とともに別館に火をかけて焼け死ぬことも打ち開られていたのだろうよ。英信はその日に非ずと思っていたが、意外にも木々彦のコクリサマは真相を語っていたようだ。こういうフシギはよくあるものだぜ。目に一丁字もない男女が予言を行って狂わぬことがあるものだ。英信が別館へ立ち戻ったとき、駒守が火を放ちつつあるとこを見たのであろう。怖れおののいて、座敷へ引っ返したのさ。木々彦が行方不明になったのは、さしたることではなかろう。予言の的中におどろきのあまり、逆行性健忘症というものになったらしいや。よくあることだ。昔はこれを神隠しといったな。いまにヒョックリ戻ってくらアな」
海舟はまたもや無心に悪血をとりはじめる。逆行性健忘症まで心得ているとは、驚き入った話。イヤハヤ、とても、かてません。虎之介がことごとく舌をまいて、八ヶ岳山麓の里人が駒守に対するように平伏してしまったのは、当然の話でありましたろう。
★
虎之介が新十郎のところへ駈け戻ると、すでに花廼屋もいる。虎之介はもどかしと挨拶ぬきに、
「犯人は駒守。自ら火をかけて死んだのだ。風守は癩病。これによって哀れその母は自害。謎をとくほど哀れの至り。木々彦は逆行性神隠し。よくあることだ。いまにヒョックリ戻ってくるなアッハッハ」
新十郎はニッコリうなずいて、
「まさしく図星です。駒守は自ら別館に火をかけて自決したのです。しかし、もう一人焼死したのは風守ではありません。木々彦でした」
「バカバカしい。そんなら風守はどこへ行ったね。風守が逆行性神隠しなどと、バカな」
「風守ははじめからこの世に存在しない人物ですよ。いつまでも後嗣をきめずにおくことは由々しい問題でありますし、そうこうすると、木々彦を後嗣にすべしというような村人の意見が高まらないとも知れません。そこで英信の母がニンシンしたのに合せて風守の母は架空のニンシンを装う。やがて実の後嗣が生れた際に非常の処置をとって風守を消滅せしめることは、はじめから企まれていたのでしょう。人デンカンと称して覆面せしめることも
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