いるか、光子は顔をあげてそれを見る勇気はなかったが、地上のいかなる物もそれ以上に威力にみちた怖しいものはないことが感じられた。光子は隠すことができなかった。
「風守さまは御病気でもないのに、キチガイにされ座敷牢に押しこめられていらッしゃるときいたからです」
「誰だ。そのようなバカなことを言うた者は?」
「一枝さまです」
「仕様のない小女めが。そして、誰が、なぜ、そういうことをしていると申したのじゃ」
「それはおききいたしません。ただ、母なき子あわれ。母ある子幸あれ、と仰有っただけです」
「ナニ?」
 八十三の老人とはいえ、岩のような巨体であった。その岩は、にわかにゆれて、ミズミズしい豪快な音をたてて笑いだした。
「母なき子あわれ。母ある子幸あれ」
 老人は大声で復誦して、また一しきり笑いたて、
「多少の詩心《うたごころ》はあるとみえる。だが、あさはかな奴らが。以後は小人の言葉にまどわぬがよかろう。じゃが、文彦の姉のそなたに今まで教えておかなかったのが手落ちであろう。改めて、ただいま言いきかせるからよくきくがよい。狂者が家督をつぐことは有りうべからざる事じゃ。文彦が生れた時から彼が風守に代って家督をつぐべきことはすでに定っておったのじゃ。正式に遺言状も保管せられておる。ただ、いまだ家督相続者と名乗るべき時期が来ておらぬだけのことじゃ。以後はこのことを胸にたたんでおくがよい」
 祖父はこう語りきかせて、おののく光子を放免したのであった。
 祖父の言葉はすべての謎を氷解せしめたようにも思われたが、光子の疑念はそれによってはれることができなかった。乙女の直感は微妙なものだ。岩がゆれるような祖父の豪快な高笑いは、詩心があるという一枝の呪文についての疑念をはらしてくれたようである。その代り、別の疑念がからみついてしまったのだ。それは英信の呪文であった。彼女がそれを良伯に語ったとき、彼は目をまるくし、棒をのんだようになったではないか。光子の直感はそれにからみついてしまったのである。一枝の呪文はたかが世間の噂と同じような根もないものであるかも知れない。しかし、英信はただの人ではないのである。生れたときから風守とたった一人の友だちなのだ。すべての秘密を知る人であった。彼の言葉には、空想や臆測はない筈なのだ。良伯が棒をのんだように目をまるくしたのは、なぜだろう? 英信の呪文の一句はカンタンだ。
「生きているのはやさしいが、死ぬのはむずかしい」

          ★

 さて、事件の起った日は、風守の誕生日であった。内輪だけの祝いであるが、東京に在住しておる一番近い親戚として、水彦はじめ、木々彦も一枝も招かれて、この三名だけがお客様であった。もっとも、分家として、御曹子の誕生日に奉祝の意を表しに現れるのは当然でもあったのである。
 覆面を脱ぐことのない祖父はいつもの例と同じように一同と共に食卓につくことをしなかったが、その他の家族は水いらずで、話もはずみ、食卓は賑やかだっだ。英信も珍しく杯に手をだして赤い顔になったほどだ。また別席では、下男や下女にも酒肴がでて、こッちはさらにわれかえるような騒ぎであった。
 食事の終りに、ユデタコのように赤くなった木々彦が一同によびかけて、
「私はちかごろコクリサマという術を会得したから、皆さんに教えてあげたいと思うが、英信さん、あなたは特に学のある人だから、あなたの学がこの魔法をどういう風に解釈するかそれを承るのがタノシミなのさ。さア、さア、ひとつ、別席で、コクリサマをやりましょう」
 木々彦はムリに英信をさそい、光子と一枝と文彦もこれにつづき、五名は座敷の一つでコクリサマをはじめる。ザル碁同士の水彦土彦の兄弟は別の座敷で碁をはじめる。
 コクリサマという遊びは世間衆知の遊びだから、御存知ない読者もなかろう。坐禅をくんだり、直立不動の姿勢で合掌し、両手に力をこめていると、坐禅をくんだままや、直立不動合掌の姿勢のままピョン/\とびあがるようになるものだ。別に狐ツキでなくても、一点に力を集中することによって、人間の身体はこういう運動を当然起すもののようである。この理をカンタンに利用したのがコクリサマであろう。ジッと筆をにぎって力をこめれば自然にうごく。今では別にフシギがる者もないが、そのころは一応フシギがられたかも知れない。
 木々彦はそういうことに凝りだしていたのである。コクリサマのみではなく、坐禅をくんだり直立不動合掌してピョン/\はねるという、それで心身統一をはかったり、法力を示す手段に用いたりすることは、すでに山伏などが古くから用いていた手であるが、木々彦はそのころそれを看板に売りだした一心教というのに凝った。術が長じると、今のお光様のように指先から霊波を発するという。昔から、あったものだ。
 木々彦はま
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