いるか、光子は顔をあげてそれを見る勇気はなかったが、地上のいかなる物もそれ以上に威力にみちた怖しいものはないことが感じられた。光子は隠すことができなかった。
「風守さまは御病気でもないのに、キチガイにされ座敷牢に押しこめられていらッしゃるときいたからです」
「誰だ。そのようなバカなことを言うた者は?」
「一枝さまです」
「仕様のない小女めが。そして、誰が、なぜ、そういうことをしていると申したのじゃ」
「それはおききいたしません。ただ、母なき子あわれ。母ある子幸あれ、と仰有っただけです」
「ナニ?」
 八十三の老人とはいえ、岩のような巨体であった。その岩は、にわかにゆれて、ミズミズしい豪快な音をたてて笑いだした。
「母なき子あわれ。母ある子幸あれ」
 老人は大声で復誦して、また一しきり笑いたて、
「多少の詩心《うたごころ》はあるとみえる。だが、あさはかな奴らが。以後は小人の言葉にまどわぬがよかろう。じゃが、文彦の姉のそなたに今まで教えておかなかったのが手落ちであろう。改めて、ただいま言いきかせるからよくきくがよい。狂者が家督をつぐことは有りうべからざる事じゃ。文彦が生れた時から彼が風守に代って家督をつぐべきことはすでに定っておったのじゃ。正式に遺言状も保管せられておる。ただ、いまだ家督相続者と名乗るべき時期が来ておらぬだけのことじゃ。以後はこのことを胸にたたんでおくがよい」
 祖父はこう語りきかせて、おののく光子を放免したのであった。
 祖父の言葉はすべての謎を氷解せしめたようにも思われたが、光子の疑念はそれによってはれることができなかった。乙女の直感は微妙なものだ。岩がゆれるような祖父の豪快な高笑いは、詩心があるという一枝の呪文についての疑念をはらしてくれたようである。その代り、別の疑念がからみついてしまったのだ。それは英信の呪文であった。彼女がそれを良伯に語ったとき、彼は目をまるくし、棒をのんだようになったではないか。光子の直感はそれにからみついてしまったのである。一枝の呪文はたかが世間の噂と同じような根もないものであるかも知れない。しかし、英信はただの人ではないのである。生れたときから風守とたった一人の友だちなのだ。すべての秘密を知る人であった。彼の言葉には、空想や臆測はない筈なのだ。良伯が棒をのんだように目をまるくしたのは、なぜだろう? 英信の呪文の一句はカン
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